屋敷に、ぽん、ぽん、と軽く弾む音が響いていた。不気味に静かなこの建物の中で、その音は酷く澄んだように響き、また酷く不似合いに思われた。音の発生源は庭の木陰で手鞠をつく少女であった。まだ十になったばかりの幼い少女で、白く雪のような肌に黒く闇夜のような髪が、つくりもののような顔を際立たせている。少女はどこか不安げな瞳を手鞠に向けて、ひたすらにつき続け、ひとつ、ひとつ、と呪文のように繰り返していた。虫の声、水の零れる音、人々の話し声。そのどれもがひとつとして聞こえない屋敷で、その声と音だけが響いている。それは異様であった。この屋敷全体を金縛りを引き起こしそうに暗く深く純粋な気配が満たしている。常人ならば発狂していたかもしれぬ。
「お市様」
縁側から女の声がした。少女はゆっくりと顔をあげた。身辺の世話をしてくれている侍女が、そこで深々と頭を下げながら、お身体が冷えます、どうぞ中へ、と極力感情を押し殺した声で告げた。
少女は動かなかった。お市様。もう一度声をかけられて、少女はようやく手鞠をつく手を止めた。響いていた音がぴたりと止んだ。一瞬、全く音のない世界ができあがった。生き物がそこに存在するのだろうかと疑問を持ってしまうほどに異様な世界。しかし、すぐにそれは少女の足音に壊された。少女は手を差し出してきた侍女の手を取り、縁側から屋敷内へとあがった。
「にいさまが、市に?」
目前の畳の上に、美しい紫の花一輪を添えて、特別に仕立てられたであろう桃と白と黒の色合いの素晴らしい着物が差し出されていた。お市は黒い瞳を細めて、それらの向こう側に座る銀糸の男、明智光秀を見た。
「何かあったの明智様・・・」
目の前の男を通して自分の兄の真意を知ろうと、探るようにお市は小さな声で口にした。お市は光秀が苦手である。光秀という男は、織田軍内では−特に足軽身分の者達を中心にー恐怖の存在として認識されていた。その理由はいわずもがな彼の性格であったが、お市に対して光秀は紳士な態度を貫いていたし、主君織田信長の妹として丁寧に接していた。しかしお市には、それが逆に強くこの男に恐怖を抱く要因となっていた。当の光秀がそれを知っているかどうかは定かではないが、怯えの様相を見せるお市に微笑みながら、そうですね、とゆっくり口を開いた。
「喜んでください、お市様。輿入れ先が決まりましたよ」
おめでとうございますと続けた光秀を前に、お市は体を強張らせた。その言葉が祝辞の言葉であることは勿論理解できた。だが、その内容に彼女は困惑の声をあげた。
「輿入れ・・・市に?にいさまがそう言ったの?」
陰鬱な表情を更に曇らせて、お市は視線を自身の膝の上に落とした。
「市、何も聞いていないわ・・・・」
その言葉に、光秀は心底不思議そうに首を傾げ、それがどうかしましたか、と言った。お市は思わず口を噤んだ。痛く刺さる光秀の言葉を振り払うように頭をふるふるとさせて、お市はもう一度畳の上に差し出された着物を見た。
「輿入れ先は浅井の頭首の元です。浅井備前守長政、おわかりになりますね?」
「はい・・・」
「信長公は浅井と同盟を結ぶとのこと。その証に貴方様が浅井に嫁ぐことになります」
その言葉を全て聞いて、お市は目を伏せた。穏やかに告げられたその言葉を彼女なりに探っていた。やがて指先を僅かに震わせながら、それらを光秀のほうへと押しやる。
「わかったわ・・・でもこれは受け取れないと・・・にいさまに伝えて・・・・・」
光秀は容易く引き下がった。では、そのように信長公に。そう一言いって丁寧に退室した。廊下の足音が聞こえなくなった後、お市はひとり残された部屋の隅へとずるずる移動して、転がっていた手鞠を拾った。それを強く握りながら、市はにいさまの人形なの?、と呟いた。今、彼女は衝動を遠くに見ていた。今、たった今、兄である信長のもとへ歩み寄って、にいさま、と呼びたかった。そうすればもしかしたら、信長が振り向いて自分を見てくれるような気がした。そうしてくれたら、市はにいさまの人形なの?、と、人形のような顔で聞くことができるのに。お市は部屋を見回す。幼い頃から変わらず、この屋敷は不気味な静寂に包まれている。お市は畳の上で手鞠をついた。庭でつくよりもよく響いた。しかし、ふたつきしたところで止めた。あの侍女が静かに飛んで来て、ここではお止めください、と言って来るような気がした。同時に、その侍女は随分前に亡くなったことを思い出した。
歩くたびに、ぎし、ぎし、と床板が音をたてる。光秀は先程引き取った着物を抱えて、信長の部屋の前で膝をつき、頭を下げ、失礼します信長公、と淀みなく声を発した。僅かな静寂のあと、返事と呼び難い返事を聞き取って、襖を開けて中へ入る。部屋の中で、信長はどっしりと入り口から背を向けて座り、日の本の地図を広げていた。入ってきた光秀に目もくれず、ひたすらにそれを盤上として並べた碁石を黙々と動かしている。光秀は障子を静かに閉め、外と同じようにその場に膝をつき、口をひらいた。
「お市様が、了解はした、しかしこれは受け取れませんと」
抱えていた着物を畳の上に置きながら、しかし信長のほうに差し出そうとはせずに、頭を下げた。信長は嘲るようにふん、と鼻を鳴らした。頭が回らぬか、役に立たぬ愚妹よ、と低く独り言のように光秀に言う。
「これはこれは。間接的とはいえ、実の妹君に向けられる言葉ではありませんね。あくまでも一般からですが、」
「それよりも光秀。貴様我が愚妹をどう見る」
少し冗談めかした発言をピシャリと遮られ跳ね付けられた問いに、光秀は一時沈黙の姿勢をとった。頭を下げたまま、目線を少し上にあげて信長の背と後頭部を見る。ここからでは表情は窺えない。その声色も平常のものであり、どういった意図で信長がそう尋ねたかは図れなかった。諦めて光秀は質問の返答を考えた。そうですね、と考える素振りは敢えて取らずに、沈黙を保ったままゆっくりと思考を巡らせた。その間の静寂は、まるでその返答を待っているかのように深く、物音ひとつせぬこの屋敷は不気味に、そしてやはり異様な空気を充満させていた。
「自虐で自分を守る、何もしないお飾りでしょうか」
盤上の碁石が動き、ぶつかりあって音をたてた。
「使い道がなければ疾うに斬り捨てておるわ」
「浅井への輿入れは朝倉攻めの布石と、そう踏んでおりましたが。どう転んでも問題なく事を運べるようにと」
常に圧倒的支配を戦略と軍事力をもって成してきた信長が、この両軍に対して同盟を組むような手段を与えたことに、光秀は首を傾げたりなどはしなかった。何にしろ、踏み台のようなものだ。特にそこに特別な感情を入れる必要性は何処にもない。
「相違がないのでしたら、これにて。この着物は如何致しましょう」
「好きにせい」
それを合図として、信長は初めて光秀を見た。察して光秀は早々に立ち上がり、失礼しますと速やかに退室をした。
障子を静かに閉めて、廊下を歩き始め、光秀は喉の奥で声を潜めて笑った。改めて、手にした着物を眺める。さてこれをどうしようか、とわざとらしく顎に手を当てて悩んでいると、廊下の向こう側から森蘭丸が駆けて来た。あ、光秀!と小生意気な言い方をして、光秀の前に立ち塞がるように現れた蘭丸に、急に光秀の中に不快な感情が生まれる。
「なんだよ、その着物。信長様がお前にくださったのか?」
「気色の悪いことを言わないでください。これは・・・」
信長公がお市様に宛てたものですよ。と口にしかけたが、何となく引っ込めた。受け取れないといわれてしまったのだから、これはお市に宛てたものではなくなるか。ならば、仕立てられた目的を無くしたその着物をどう表現しようか。もう一度、その着物を眺める。桃と白と黒が織り交ぜられた美しい着物だ。
「・・・処分を、頼まれたのですよ」
なーんだ、と蘭丸はつまらなさそうな声を出した。そして急に目の前の男に興味を失って、禄に挨拶もせずにすれ違っていく。蘭丸の足音が聞こえなくなってしまってから、そうだ燃やそうと思い立った。ゆっくり、庭へ出られる廊下へと移動して、使用人が枯れ葉や小枝を燃やしているであろう場所まで向かっていった。
火がおこされている場所では、多くの雑兵が暖取りに来ていた。しかしそこに光秀が姿を現すと、何人かのものたちはそそくさとその場を後にしていった。残ったものたちも体を硬くさせて、ちらちらと様子を窺っている。目に入っていないのか、雑兵たちのそんな態度も全く気に留めず、光秀は火へと近づいていった。そこで抱えていた着物を頭上にかざして、手を離そうとした。そのとき、背後から女の声がかかった。ゆっくりと着物を腕の中に戻して振り返る。声で既にわかっていたが、濃であった。どうしました、と穏やかに声をかける。
「燃やすつもり?」
光秀は躊躇いなく頷いた。
「上総之介様が折角上質の布で拵えになられたというのに」
もったいない、と言いたいのだろう。濃は光秀の腕から着物をひったくって、それを広げた。上から下まで目を通している。光秀はゆらりと首を捻るようにして髪を揺らせた。
「帰蝶にはもう少し大人びた色が似合うかと」
「別に私が着るとはいっていないわ」
もう一度綺麗にたたみ直して、踵を返して屋敷のほうへと戻っていく。
「では、何に使うのですか」
その問いに、答えは返って来なかった。
お市は、信長を目の前にして押し黙っていた。どれほどの時間、静寂が流れていただろうか。
「・・・・にいさま」
恐る恐る、口を開く。その瞬間、お市の髪を掠って銃弾が撃たれた。
「貴様の言い分は聞き飽いたぞ」
「でも・・・」
浅井への輿入れの詳細を告げられたお市は、拒否の意志を示した。その理由など簡単なことで、嫌です、市にはできません。勿論、それを信長は認めなかった。そこには彼の軍事的な問題と同時に、この妹への失望があった。堂々巡りにしびれをきらせたのは当たり前だが信長である。彼は恐らく、彼女が拒絶をしようとも、彼女を浅井へと差し向けたであろうが、その首が完全に縦に振られるのを待っていた。しかし元々辛抱強い方ではない。ようやく信長は立ち上がり、お市の目前に銃口を向けた。
「市、貴様自分を何と心得るか」
「・・・・市は」
にいさまの人形なの?と発音しようとして、彼女は誤った。
「にいさまの人形じゃないわ・・・・」
信長は銃口を降ろした。
驚き顔をあげたお市は、嘲笑とも取れる高笑いをする己の兄の姿を見た。
それはただただひたすらに恐怖の光景であった。彼女は怯えたように一歩膝を下げる。そして己が先程口にした言葉を後悔した。
失せよ!と高らかに告げた信長は、無理矢理お市を退室させた後もただひたすらに笑っていた。恐怖であったのはお市だけではない。屋敷全体に可笑しな空気が跳ねていた。
しかしそれも一瞬のことであった。すぐにまた屋敷内は異様な空気で満たされた。
退室し、自室へと放り込まれたお市は、茫然とした。
兄は何を自分に求めていたのか、それが急に靄にかかって見えなくなった。
しかし、何故、とは思わなかった。後悔だけをしていた。思考をするのが酷く億劫になったのだ。
そしてやがて彼女はいつものように口にした。市の所為、これは市の所為と、呟き続けて信じた。
盛大に法螺貝が鳴り響き、馬と幾人もの兵たちが整列をする。前日は雨だった。今も曇り空の下、お市は籠へと乗り込んだ。近江へと向かう行列は、間もなく出発する。寸前に、屋敷を盗み見た。信長は見送りに来なかった。当たり前だと、理解していながら、お市の心は陰鬱であった。懐から手鞠を取り出す。出発準備中に、咄嗟に、こっそりと持ち出していた。この中でつくことはできない。それを握り締めて、お市は目を閉じた。籠が動き出す。行列の揃った足音に混じって、ひとつ急いだ足音が聞こえた。少し隙間から覗くと、そこには濃がいた。曇り空の下、輿入れをするお市自身も暗い表情の中、濃は優しく微笑んだ。足元を見る。跳ねた泥で足は汚れていた。
「これを」
お市の前に差し出されたのは、あの日、光秀が自分に差し出したあの着物であった。お市は困惑した。いつになく強く頭を振って、受け取れません、と濃に申し訳なさそうにいった。しかし濃は更に強くそれを突き出して、お市の手に持たせた。
「着なくてもいいわ。持って行きなさい」
押し負けたようにお市はそれを受け取る。しかししっかりと腕に抱えて、ありがとう、と告げた。濃に誰かが声をかけた。それに頷いて、濃は最後にもう一度、お市に微笑んだ。籠の隙間からさっと、濃の姿は消えた。再び動き出した籠に揺られながら、お市は小さな声で呟いていた。
「・・・ひとつ、・・・・ひとつ・・・・ひとつ・・・・」
幼い頃、ひとり手鞠をついていたあの調子で。あの拍子で。行列は進んでいく。
雛流し
織田軍愛が高まりすぎて急に。
ネタだけはばさらにはまりたて当時からありましたが、
日の目を見たのはこれがはじめてです。
あとからよんでも、これだけはちょっと自信作。自惚れ。ふはは