「寒い」


 普通の奴に比べれば随分と静かだが、それでもわずかにたてられた音で目を覚ましたことはわかっていた。壁を挟んだ向こう側、ヒイロの部屋として割り当てられた小さくて殺風景な部屋。

「おう、毛布でも被りながら朝飯食うか?」
「暖房をつけろ」
「つけるほど寒くねえじゃん」

 いや、本当はデュオも、少し寒かった。とりあえず下着にシャツとトレーナーと、さらに軽く上着を着て誤魔化しているだけだ。ヒイロはもっと薄着だった。もともと動きやすさばかり考えていつも薄着な奴だが、さすがに今はエージェントでもガンダムパイロットでもないので、もうちょっとマシな恰好をしてはいる。それでも薄着だ、と見た目でわかるくらいには薄着だった。

「もっと上着てこいよ」
「暖房を点ければいいだけのことだ」
「ええー電気代勿体ないー」
「せっかく使えるものを使わない方が勿体ない」

ヒイロの足が迷うことなく暖房のリモコンのもとへ向かい、手がそれを掴もうとする。咄嗟に身を乗り出してそれを先に奪い取った。するとすぐに手首ごと捕まえられて馬鹿力でそのまま引かれた。うぎゃあ!と悲鳴をあげた隙に、指からリモコンが剥がされた。あ、ちくしょうこのやろう。
「やーめーろーよー」
 駄々をこねるような声を出すと、ヒイロの無表情が少し動いた。面倒くさいと思っている顔だ。何故、と語っている。言葉にしないのは相手をする気がないからで、一旦そうやって会話らしい会話を持てば、デュオの方が機関銃のように喋ってやり取りが長引くことを、経験で理解している。


「寒いのにあったかいって何かへんな感じしねえ?」
「しない」
「即答かよ」
 そして何のためらいもなくそのスイッチを押してしまう。鈍い音をたてて機器が動き出した。あーあ、あーあ。わざとらしく大袈裟に落胆の声をあげて、デュオは板の床に寝転がる。床暖房なんて気の利いたものはつけていないから、ひんやりとした空気がそのまま服越しに伝わってきて、あ、やっぱり寒い、とそのままくるりと体を転がし、頬を床に付けてみた。ひどく冷たかった。



「何をしている」
 暖房をつければそのまま素っ気なくコーヒーを入れる準備しはじめたヒイロが、ケトルのスイッチを押しながら転がるデュオを容赦なく蹴っ飛ばす。

「いってぇ、そっちこそ何すんだよ」
「邪魔だ、それに先に起きていたのなら何故朝食の準備ひとつもしていない」
 せめて皿くらいは出せ、と矢継ぎ早に言われてデュオは顔をしかめた。確かに、そのつもりで先に起きて戸棚の扉を開けるくらいまではしたのだ。しかしカーテンの隙間から何気なく覗いた窓の外に気を取られてしまった。結露のひどいガラスの向こう。



「なぁヒイロ」
「なんだ」
「雪降ったんだぜ」



 寝転がったままの体勢で、さかさまに見える窓を指差した。ヒイロが静かにそちらを見る。曇ったガラスの一部が乱暴に拭われてわずかにできた透明な空間から、ほんの少しだけ外の様子が窺える。いつもはねずみ色の建物がよく見えていた。下に連なる街路樹も見えていた。今はそれが全て、真っ白に染まる。

「…それがどうした」
「面白くねえの、初雪なんだぞ?」
「雪は嫌いだ」
「寒いから?」
「…いい思い出がない」
「お前にいい思い出とかあったの」
 すぐに睨みつけるような視線が飛んできた。それで怯んだり謝ったりはしない。慣れっこだし、向こうだってわかっているのだろうし、これはきっと暗黙の了解というやつだ。




 真白い雪の中で、看取った命と埋めた記憶と。




 湯気を吹き出すケトルをとって、さも当然のように自分の分だけのコーヒーを作り始めるヒイロに文句も言わない。逆さまの窓をただ見つめている。雪が降ったら、とても寒かった。だけど降り積もったそれをかき集めて溶かして水にして、そんなことはもうしなくたって蛇口をひねれば出るものが、恋しくなって手を差し出して。
「ゆきだるまでもつくるかなぁ」
 腹の虫がぐるるとないた。食パンを一枚焼こうと思いながら、デュオはそのまま床から動かずに瞼を閉じる。いつもならおい寝るなと罵る声は聞こえない。ヒイロはコーヒーを啜りながら、デュオには見えないところで窓の外を見ていた。灰色の空を見ていた。




037 雪の朝