気付けばもう空も白みはじめていた。と、云ってもまだ薄暗く、街灯の光に照らされなければ目も利きにくいが、それでも月の光が幅を利かす時間帯はとっくに過ぎてしまったようだ。ヒイロは僅かに眉根を寄せる。
明日(もう今日だ)は授業もないから、別に良いと言えばいいのかもしれない。一日特別にすることがないというのは存外に困る話だが、これで明日も朝から動けと云われるのも面倒な話だった。任務、仕事と銘打たれたらヒイロに断る理由はないし、体力は人並み以上という言葉では片付けられない程に秀でている自信もある。だが疲れるものは疲れる。三日眠らないのなんてエージェント時代、更にガンダムパイロットであった時代にはザラだったが、眠らなければ眠たいものは眠たいのだ。そんな当たり前のことに今さら思考を潰した。
目立たない住宅街の角に立つマンションの、入り口に置かれた端末に部屋番号と家主番号を打ち込む。程なくして開いた自動扉をくぐり、エレベーターのボタンを押した。
最近なら珍しくもないような、申し訳程度のセキュリティだ。それでもそれなりの治安が維持されているこの辺りなら、このくらいで構わないのだろう。エージェントであったヒイロには子供騙しにしか思えないが。
降りてきたエレベーターには、今から出勤なのだろう会社員の男がひとり、眠たそうな顔をして乗っていた。開いた扉の向こうにヒイロが居るのを見て、慌てて表情をしゃきっとさせる。そのままヒイロの隣を過ぎていった。
五階でエレベーターが止まる。迷わず降りて真っ直ぐ南側の部屋へ向かう。磁気式の鍵を差し込んで素早くなかへと、滑り込むように入りきった。特別警戒しなければならないことなどなかったがもう癖になってしまっていた。後ろ手で鍵を捻る。
中では、玄関の電球だけが眩しく光っていた。気配はある。同居人は眠っているようだった。
それほど大きな住まいとは言えない、だが個々の部屋をそれぞれに持つことができるくらい部屋数には余裕があった。そのようにヒイロが手配した。同居人は、珍しく自分に割り当てられた部屋でおとなしく横になっているらしい。いつもは何故かこのリビングのソファーを陣取り、我が物顔で使っているのだが。見ると、テーブルの上にラップのかかった皿が幾つか並んでいた。
ああ、早く上がってきたのか。
感想はそれだけだった。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、ソファーに、歯ブラシをくわえて長い髪をぼさぼさにさせた男が出現していた。壁にかかった、この男いわく『愛想のない』平凡な時計へと目をやって納得する。
「よお、おかえりヒイロ」
おはよう、より先に、おかえり、を口にするのはこの男の特徴だった。
「実はドアが開いた音で気付いたんだけどさ、まぁあと三十分ほどで起きるんだしいいかなぁって。遅かったなぁ〜めんどくさい仕事だったか?あ、またお姉さま方に事務作業押し付けられてたとか?そんなの下っ端にやらせりゃいいのに、特に長官のあのオバサン、処理がはやいってだけでぜーんぶこっちに回してきやがるし。全く堪ったもんじゃないよな」
起き抜けだというのによく舌の回る奴だ。確かに、つい最近までヒイロと同じく一流のエージェントにしてガンダムのパイロットであった彼が、寝起きぐらいでぼんやりするはずもないのだが。それはこのふざけたスタイルと、何処か一致しなくて首を捻る。
「…任務の事後処理に手間取っていただけだ」
「へぇ、お前が?」
そう言ったくせに、んなワケないよな、とすぐに自分で撤回してけらけらと笑い出した。何がそんなに面白いのかわからず、ヒイロはただ黙り込んで彼を睨んだ。
「ああ俺?工場長が気を利かしてくれてさぁ。日が落ちる前に帰してくれたんだぜ。たまには努力ってのも報われるもんだなあ」
早く上がったのだろうと事実だけでことを済ましたヒイロに、訊ねてもないのにあらましを語る彼の機嫌は、良いのか悪いのかヒイロには判断がつかない。彼は機嫌がよくても悪くてもよく喋った。黙ると死ぬのか、と彼をからかったトロワの言葉は、もしかしたら図星だったかもしれないとすら思える。それくらいによく喋った。この子供騙しな部屋に押し込められてからは、特に。
「ヒイロ。飯、食わないのか?」
そこでふと、テーブルの上のラップをかけたままにしてある皿が目に入ったらしい。昨日自分で作ったものだと云うのに、もう存在を忘れていたのか。
「あとで食べる」
「あとでって、何時だよ」
「まだ…、…」
まだ日が昇っていない。そう言おうとして口を開いたまま、少し躊躇した。
「…まだ朝食の時間じゃない」
「なんでぇ、どーせ晩飯も食ってないくせに。ちょっとくらい早飯したっていいじゃねぇか」
「それをお前に指図される筋合いはない」
尤もなことをいった筈なのに、何故だか奇妙に思われた。同居しているにも関わらず幾つも幾つも防衛線を引いていて、そこで何もかもぶったぎり。相手の出方を窺う前に言葉が飛び出て、そのことを反省したりもしない。別に、今までの関係を変える必要は、無いが、まったく無いのだが。
「だったら一緒に食おうぜ、俺の分も作るからさ」
ぬるま湯に浸かった状態から抜け出せない。元気に台所へと向かう背中に、我が侭で尊大になれと主張したかった。未だ此処は宵闇の中、白んだ空の下。
「どうした?」
二人分のコーヒーが机に置かれる。ミルクと共に出された方を手元に引き寄せながら、今更どうしようもなく後悔した。眩しい太陽を幾日も新しい気分で見詰められる朝を、心待ちにできるような、そんな筈だったと思っても口にしなければ伝わらないままなのだと、そんなことはヒイロにだってわかっているのに。
未だ、此処に日が昇らない。
001 夜明け前