一番酷かったのは左腕だ。まるで自分のものではないかのようにだらんとしていて、指一本も動かせそうになかった。それでもきちんと直せばもう一度以前と同じように動かせるのだから、つくづく人間ってのはタフだと思う。口の中が血の味に溢れていて吐き気をもよおした。そんな自分を、ヒイロは僅かに眉間を寄せながら便所へ押し込んだ。
ロクにものも口にしていなかった所為か、吐いてる間、胃が熱くて仕方がなかった。何か食わないと死ぬとわかっているのに喉は狭まって食物を拒む。いやはや、物心ついたときから痛い目なら散々遭ってきたなんて思っていたけれど。久しぶりに最悪な気分だ。何度経験してもこれだけは慣れそうにない。
「寝ていろ」
口を濯いで洗面台にもたれ掛かるデュオを腹から抱えながらヒイロが抑揚のない声で言う。目一杯寝たから眠くねぇよと返そうとして、失敗した。嗚咽だけが声になった。
何も胃が受け付けないのに食事を出された。深皿の中で揺れるスープと目の前のヒイロとを見比べる。ヒイロはなに食わぬ顔で固形の栄養食をかじっていた。俺にはこんなもの出しておいて自分はそれか。普段ならきっちり声に出すのにやはり息が漏れ出るだけだった。ヒイロと居てこんなに静かであるのは何だか変な気分だ、むしろ一抹の悔しさすら感じる。
ベッドのサイドテーブルに置かれたスープを手も着けずじっと見詰めていると、しばらくしてヒイロがその皿を持ち上げた。右手が動いてスプーンを掴み、中身を一掬いするとデュオの顔前に突き出す。デュオは顔をしかめた。
「がきじゃねーんだから」
ようやく音になった声は、掠れて情けない色をしていてますます機嫌を悪くした。
「腕が動かないんだろう」
「左だけだっ」
喉を鳴らすと痛みが走る。同時に気持ち悪さもそこに感じてやはり口を閉ざしてしまい、不自然に文句は途切れた。ベッドの脇でリバースは大いに避けたいところだ。第一もう外に流せるものなんて、このボロ雑巾のような体の中には一滴もない。ないのに、腹の底からせりあがってくるこれは、いったいなんなのだろう。
ヒイロはまだ、こちらにスプーンを突き出したままの格好で居る。
「……」
何か拒絶の言葉を口にするのも面倒になった。したところで、どうせこいつは聞き入れたりしないだろう。こいつなりに今最善の方法を取っているに過ぎないのだと言うことがわからないほど、自分は鈍感な奴じゃないと思っている。
一応の降参意思を示すため、薄く唇を開いた。ヒイロは目敏くそれに気付いて、その僅かな隙間にスプーンを滑り込ませた。口内に広がった粥の味は、濯いで綺麗にしたと言えど嘔吐した影響で、少しも旨くはなかったが、再び外に出すような真似はしなかった。
テレビを見ていた。こんな朝の時間帯に流れているのは民間放送のニュースだけだ。特に何処へ行くとも言わず、いつの間にか部屋からヒイロが居なくなっていた所為で、かなり退屈していた。身体中がぎしぎしと悲鳴をあげていても、冗談を言って笑える態度は崩さなかった。否、崩せないのだろう、自分は。テレビに映るコロニーとOZの、なんともインチキくさい穏やかな会合に、勝手に腹を立ててベッドを殴った。
「どいつもこいつも」
もう何に対してこんなに惨めな思いでいるのか、わからない。
けれども似合わない買い物袋を抱えて戻ったヒイロ相手に、鬱陶しい感情をぶつけられるほど子供でありたくもなかった。
ヒイロは相変わらず何を考えてるのかよくわからない無表情で、こちらの様子を窺っている。袋の中からは替えの包帯が出てきた。
「自分でやれるな?」
言葉足らずでも、その意味くらい容易く察せた。
「バカにしてんじゃねーぞ」
引ったくった包帯を乱暴にサイドテーブルに置いて、少しも態度を崩さないヒイロへと視線をやる。彼はさっさと立ち上がり、部屋の一角にあった荷物のケースを開いていた。独特の金属音がその手の動きに合わせて僅かに耳へ届く。テレビのアナウンサーの声が煩かった。電源を切れば、ずっと自分に背を向けて作業をしていたヒイロがこちらを振り返った。
「行くんだよな?」
右手に握ったままの拳銃を見ながら、確認のように訊ねる。
「お前は来るな」
「それはさっき聞いたっつーの」
今更こんな思い通りにもならない身体で、付いていこうなどと駄々を捏ねるつもりもなかった。しかしこの身体が一度たりとも自分の思い通りになったことがあったかと、…くだらなかった。くだらない自分が嫌だった。
「で、どうやって行く気だよ。まさか正面から堂々と侵入ってわけじゃあないよなぁ」
ヒイロは答えない。返事を期待などはじめからしていないが、例えされても内容に大体の見当はついていた。呆れたようにため息を吐く。そう言えば、出会った当初からヒイロ相手にはため息吐いてばかりいる気がする。
やめろよその特攻上等根性。なんて、何時もなら軽口叩いただろう。わかっていた。人の体は消耗品でもないのに、まるで替えがあるんだと、何食わぬ顔で言い出しそうなくらいに容易く天秤にかけられるその根性を、少なからず自分も持ち合わせているのだ。けれどもそれは自分だから、そんな誇れない覚悟なんて他人は持たなくたっていい、少なくともヒイロは、自分と同じような境遇に居ることを差し引いても、持つ必要なんてない。必要ないと言ってやりたかった。そのくらいには、ヒイロのことを友人のようなものだと思っていた。
唐突に頭を振る。髪がぐしゃぐしゃになるのも無視してがしがしとそれを掻いて、顔を俯けたままきつく目を閉じた。テレビに向けた不条理もそう、栓無いことだと割り切ったのならきちんとケジメをつけなくては。聞き分けのない子供で居ることを許せるだけの度量なんて、持っているわけもないのだし。
顔をあげると、ヒイロが立ち上がってこちらを見下ろしていた。やはり表情は変わらないが、珍しい生き物を見つけたように目線を下げている。何となくその感じが嫌で、ベッドから立ち上がろうと左腕をつき、盛大に顔をしかめた。そうだ、折れていたんだった。しかし逃げ出した当初は指一本動かなかったそれも、今はほんの少し指先が動かせた。それを確認したら何故か酷く安心した気分になって、ようやく自然に笑みが零れた。人間がタフで良かったと素直に思えたのは初めてだ。
いつの間にかヒイロが、手にしていた銃を置いてベッド脇に膝をついていた。少々取り戻したなけなしの機嫌で、どうした、と首を傾げると、くっつきかけている左腕をやんわりと掴まれた。
「いでっ」
「少し我慢しろ」
それほど強い力を加えられたわけではないが、少し動かされるだけで神経は鈍い痛みを脳に伝える。言われなくとも喚き声なんてあげるつもりはなかった。ヒイロは確認するように、恐らく折れた部分である場所を丁寧に指で触れている。
「包帯は替えておけ」
「だから、わかってるって」
そんなに長い付き合いでもないが。ヒイロの言動の端々から彼の本質を見出だせるようにはなっていた。こんな状況でも曲がらないヒイロなら、自分もそうでないとらしくない。
「おう、行くのか?」
云うことを訊かない体を引き摺って冷蔵庫を漁っていたら、必要最低限の荷物に偽造の証明書を手にしたヒイロが横切った。何も言わずに出ていこうとするのは戴けないが、仕方ない。声をかければ振り返った。ああ、と素っ気ない返事が聞こえた。
「じゃ、気を付けてな」
つけっぱなしのテレビからは相変わらず胸糞悪くなる体面ばかりのニュースが流れている。少し広くなった部屋の中を、ふらふらと歩いて窓際に手をついた。溢れる人の波からヒイロを見つけて一方的に右手を振った。気付くはずもない。窓は開けていないし、ヒイロはもうこちらを振り返りもしない。構わなかった。手を振るのはここ数日の自分に。
もうすぐデュオ・マックスウェルに、自分も戻れそうな気がするのだ。
帰投を願った
なにがかきたかったのかさっぱりである…イチニ好きならだれもが考える19話のはなしを完璧に色気なく書いてみたかっただけ。