「よし、今日から俺の弟だなクラウド!!」
目の前が遠くなっていくような、そんな感覚を味わった。
冗談じゃない!!なんでアンタなんかと!!
それが、ただの子供の癇癪と、認めたくなかったんだ。
一回りも大きい手が、頭を乱暴に掻き回す。
そして向けられた濁りのない笑顔が、とてつもなく悔しかった。
負けた。
俺は、負けた。
(曇りのち、晴れ。気まぐれに雨)
ごく普通の一般家庭に生まれ、ごく普通の学校生活を送ってきたクラウドにとって、エアリスというイレギュラーは、クラウドという個人を彩る唯一の存在であった。何の変哲もない人生が、他の誰とも相違なく終わるかもしれない人生が、エアリスという存在が加わるだけで急激に、魅力的で、他の誰にもない素晴らしいものになった。学校の友達とは、確かにクラスメートとして関わっていたものの、上手く馴染むことのできなかったクラウドは、物心ついたときからこのエアリスに依存していた。
彼女は、母の友人の娘であった。クラウドもエアリスも、母親しかもたぬ母子家庭の生まれであり、母を通じて本当に小さな頃からよく遊んだ。エアリスの方が3歳年上。他人なので勿論顔は似ていなかったが、いつも一緒に遊んでいるその姿を見て、多くの者が「姉弟のようだ」と微笑んだ。
大抵、エアリスがクラウドの手を引いて連れ回していた。幼い頃からよく喋り、笑い、お転婆さながらよく動いたエアリスは人気者で、クラウドはいつもその後ろにおまけのようについていた。
明るいエアリスとは対照的に暗くて口下手で内向的なクラウドは、子供たちの間での評判はすこぶる悪かった。だがクラウドがそんな子供たちの評判をまともに受けることはなかった。
「クラウドはいい子だよ」
クラウドの手を引きながら、エアリスはいつもそう言って友達に笑うのである。他の子たちと遊んでいてもクラウドを蔑ろにすることは決してなかった。それを面白くないと思う子には、はっきりとそれなら一緒には遊ばないと言い切った。そんなエアリスに、クラウドは依存した。
エアリスは自分を置いていかない。
クラウドにとって、エアリスは一本の大きな木。クラウドは、その木陰の下で木に甘える小動物のようなものであった。その感情は、恋というには些か鮮やかさに欠けた、子供の依存心だった。
確かにエアリスは、クラウドでなくとも神にも等しく思われるような、絵に描いたような聖母像であった。その明るい笑顔が絶えることはなく、柔らかな声が紡ぐ優しい言葉は、凶悪な殺人鬼すらその凍てついた心を明け渡しそうなほどよく響く。いつも暖かな眼差しを持って大人のように見守り、しかし子供らしく無邪気な好奇心に溢れていた。
そんな彼女が、たった一度だけ人前で泣いた。それは彼女の母親が亡くなったときだ。
葬式の間は、その張り詰めた雰囲気の中、ただ真剣な顔をしていたのだが、火葬前に花を手向けたとき静かに泣いた。慰めるようにエアリスを抱きしめたクラウドの母の傍で、クラウドはただそこに立っているだけであった。
強くて優しい大樹は、ひとりで生きていたわけではない。クラウドがその大樹の陰で生きているなら、大樹もまた、太陽の下、水や大地から沢山のものをもらって生きていた。そのとき初めて理解したのだ。クラウドが10歳のときであった。
そのときクラウドは、ただ彼女に依存し寄り添うだけではいけない、自分も彼女と生きていくのだと幼心ながらに思っていた。間もなくエアリスはクラウドの家で共に暮らすことになった。決してクラウドの家は裕福ではなかったが、母は二人の為にも必死に昼夜働いたし、二人もそれを必死に支えていた。
「大きくなったら一杯一杯恩返し、しなくちゃ。早く一人前になって、ね?」
クラウドと二人で家事をしているときに、エアリスが呪文のように言っていた言葉だ。最後の同意を求められたそれには、いつも大きく頷いて返事をした。そうすればエアリスがにっこりと笑ってくれることを知っていた。もうすぐエアリスは16になろうとしていた。
クラウドが中学、エアリスが高校に入ると二人が共に過ごす時間は一家団欒の夜や休日となった。遊ぶ、というのも子供の頃だけの話で、二人ともやはり当たり前に趣味や興味のあるものが違うのだ。
母やクラウドに対して、エアリスはよく学校の話をした。あんなことがあった、こんなことがあった。子供の頃と変わらずエアリスには友達が沢山いて、変わらず人気者であるらしい。クラウドはしかしその友達とやらに会うことはなかった。昔との差異をここでも感じた。別にそれが釈然としないわけではない。エアリスがどんなに他の場所で過ごしていても、この家に帰ってきてクラウドにも沢山話をしてくれるのだ。彼女は相変わらず優しく明るいままだ。
この生活が、今は長く長く続いていけばいい。
本当は、ずっと昔から今まで少しずつ入っていた亀裂があったことを、まだクラウドは気付いていなかった。彼の世界は母とエアリスだけ。他の何に興味を開くことはなかったし、また開こうと考えたこともなかった。
自覚のないクラウドに、母が一度言った言葉がある。
「いつか自分に押し潰されてしまうよ」
その意味を、クラウドは半分しか理解できなかった。
共にそれを聞いていたエアリスは、ただ微笑んでいるだけだった。
クラウドの中に入った亀裂はあるときを境に突然表面化した。
「あのね、とっても面白い人と友達になったの」
ある日エアリスが夕食時に楽しそうにそう言った。
「ほら、商店街の中にあるお花屋さん。そこのお客さんでね、私より3つは確実に年上なんじゃないかなぁ。黒くてつんつんした髪質でね、目の色がー・・・そう、クラウドぐらい青くてね」
男の人だよ。
クラウドはさして気にも留めていなかった。エアリスがあちこちで友達を作ってくるのはいつものことだったからだ。その男は、その花屋で花束をつくってもらっていたらしい。しかし花には疎いらしく、店員の話を聞きながら悩んでいたところにエアリスが入って花を選んでやったのだとか、そういう感じであった。
今までどおり、クラウドには直接あまり関係ないと思っていたのだが。
その男に会う機会に恵まれてしまったのである。
日曜日。
久しぶりにクラウドとエアリスは二人で買い物に出ていた。家から約10分ほどで行ける商店街、忙しい母の代わりである。必要最低限買うものをまとめた小さなメモ用紙を手に、昼前の賑しい時間帯にやってきた。
時期は秋、もうすぐ冬。買い物メモを眺めながら、エアリスはお鍋の季節になるねとクラウドに話しかけた。大きく頷いてエアリスの顔を見る。昔は見上げていたそれは、今ではほとんどまっすぐに近い位置になっていた。
「お鍋、私シンプルにポン酢で味付けがいいな。一番美味しいと思うんだ」
「・・・俺もそれがいい」
「お鍋って今じゃ冬どこでもするけど、元々この辺りにはなかった習慣なんだって。もっと東の方からきた文化らしいよ」
「それも、学校で習ったのか?」
「そう。クラウドもきっと習うんじゃないかな」
エアリスが高校生に、クラウドが中学生になってから、こうして話すことはあまりなくなった。時間がないのが一番の理由である。全く話をしてなかったわけではなく、ほとんどは母も含めての三人での会話になっていたのである。三人のときと二人のときで、クラウドの態度は少し違った。否、違うそれは語弊がある。家の中と外で違いがあったのだ。
「寒くなったら、おばさん、お鍋してくれるかな?」
「・・・頼んだらいい」
「そっか、一緒に頼もっか」
そのとき、例の花屋の前でエアリスの足が止まった。不思議そうな顔で花屋の中を見ていた。クラウドも覗くと、沢山の花の間から黒い髪が見えた。
「ザックスだ!」
嬉しそうにぱん、と手を叩き、エアリスは店の中へ駆けて行く。慌ててクラウドも追いかけて入る。花の手入れをしていた店員に挨拶された。会釈で適当に返して先ほどの黒い髪が見えた方へ目を向けた。
「エアリスちゃん?おおーびっくりしたぁ!また会ったなぁ〜」
「私ここの常連なの。家からも近いし店長とも仲良しだよ」
エアリスの向かいに立つ男、黒くて、エアリス曰く”つんつん”した髪質の。クラウドはやっとこさ記憶を掘り起こして納得した。これが、エアリスが友達になったという”面白い奴”か。
男はエアリスよりも頭ひとつぶんと半分くらい背が高く、硬い質の髪を真ん中分けにしていた。人の良さそうな顔は、そこだけ見れば少し幼い。しかし体育会系かなにか、体つきはしっかりしていて”男の人”という感じがした。
クラウドは顔を顰めた。別に嫉妬心があるわけではなかったが、少し自分と比較して嫌悪した。クラウドは生まれつき小柄でしかも女顔で、いい風に言えば端正で美少年だったのだが、男としての性か、初対面で女と間違えられたり、エアリスに「クラウドってお人形さんみたいだね」と無邪気な笑顔で言われたときは死にたくなった。流石にもう女と間違えられることはなかったし、お人形さんといえるほど小さくもなくなったため、気にする必要はほとんどなかったのだが、このまるでクラウドとは正反対な”男の人”とエアリスが楽しげに話しているのが、はっきりと気に入らなかった。
男はしばらくエアリスと話していたが、途中でクラウドの存在に気付いて、
「あれはエアリスの弟?」
と尋ねた。エアリスは間髪いれずに頷いて肯定した。
「そう、クラウドっていうの。よろしくね」
エアリスはすかさずクラウドの傍に寄って顔を男の方へ向けさせた。初めて、クラウドはその男と向き合ってその目を見た。成る程エアリスの言ったとおりである。男の目は澄んだ深い海の色をしていた。
「クラウド、これザックスね。ちょっと変だけどとっても面白いから」
「なんだよ、俺の何処が変?」
エアリスの紹介に笑いながら異を唱えて、ザックスというその男はクラウドに手を差し出した。クラウドはその手を訝しげに見る。顔をあげると、ザックスが小さな餓鬼のように笑っていた。
その手を、クラウドは握れなかった。
ザックスの笑顔を見て、クラウドはその場で呆然とした。
衝撃だった。頭のずっと奥底、胸のずっと真ん中のあたりに、一発がんっと何か硬いもので打たれたような衝撃だった。その衝撃が、クラウドの手を差し出そうとしなかった。
クラウドの世界に目に見えて亀裂が入った。
その亀裂から、太陽が差した。
きっとこの世で、エアリスしかできないと、エアリスしかもてないと思っていたものを、目の前の男が自分にしてみせたことに、クラウドは、ただただひたすらに絶望した。