ひとり部屋の中、ふと見た窓の外の木で鳴く蝉を見て幸村は動きを止めた。鳴いているところを目の当たりにしたのは初めてであったかもしれない。あの木を揺すればぼとぼとと、気持ち悪い量の蝉はすぐに落ちてくるであろうに。夏の暑い日はいつも以上にうるさく蝉がないているように幸村には思える。
蝉は好きではない。その耳に突き刺さる声が憎い。
だが、そんな不快な蝉が幸村にある記憶を呼び起こした。
幸村がまだ酷く幼かったころ。弁丸と称したその頃、幸村は非常に臆病であった。自分と常にそばにいた兄信之と、厳格な父昌幸、そして敬愛すべき信玄公以外のすべてのものに、まるで生まれたばかりの赤子のように畏怖した。当然身の回りの世話をする女たちや頭を下げてくる武士たち。ましてや小さな猫、犬、そして庭にそこら中にあふれる虫たち・・・何も恐ろしいことなどない蝶などの動く対象物を見るたびに兄の背中に回って震えてしまうのだ。
大した理由は見当たらない。今の幸村が考えても、何故の答えはひとつも出ない。大して理由などなかったに違いない。
そんな幸村に兄はただ、「大丈夫。何も怖くないよ」と頭を撫でるだけであった。だがどう大丈夫なのか、何が大丈夫なのかがまったくわからぬ幸村にはそんな兄の言葉も意味を成さなかった。
ある日、幸村は父と兄に呼ばれ、その部屋に赴いた。部屋に入ると、父と兄の他にひとり、橙の髪を持った幸村よりいくらか年上の少年がいた。身なりはあまりよくなく、みすぼらしい。二の腕は無駄な筋肉がなく、ほっそりしている。そして両の目には、幸村を貫きそうなほど、哀れみや同情が映っていた。
当然、幸村は身を硬くした。はじめて眼にする目の前のよくわからない生き物に恐怖した。
「弁丸、お前の忍びだ」
その様子を見たうえで父昌幸は口を開いた。
「これからしばらく戦が続く。前のように信之はお前に構ってはいられん。だが代わり、といってはなんだがお前の世話、稽古、相手をする忍びを置いていく・・・安心しろ、まだ若いが立派な忍びだ。大事にするんだな」
その忍びが幸村の前で腰を屈めて頭を垂れた。幸村はまた、身を硬くした。
「・・・猿飛佐助です。よろしく弁丸様」
静かに、淡々と告げた彼の眼は、しっかりと幸村を捕らえた。幸村は激しく背筋を震わせた。そのことに気付いているのかいないのか、佐助はただ冷たく感情を殺した声で忠誠を誓い立てた。それを確認した昌幸と信之は、微笑んだが幸村にはその理由が全く理解できなかった。
佐助は幸村のためによく働いた。勿論忍びとしての仕事、ということはあるだろうが、幸村が呼べばすぐに駆けつけたし、どんな雑用も器用にこなした。よく喋るほうではあったが、出会った頃と同じでその眼だけはいつまでも哀れみが映っていた。幸村は佐助が嫌いではなかった。むしろこの自分に忠実な忍びに、三人の前者の次に心許した存在であった。だが、それとこのある意味生理的ともいえるこの恐怖感はいつまでたっても拭われなかった。
いつも佐助が後ろにいる・・ということを実感したときいつも安心と同時に恐怖に身が震える。彼を、とても恐ろしい、と意識していた。
またある日、庭より部屋に戻ろうとかけていた幸村の近くに迷い猫が姿を現した。例のように幸村はさっと身を硬くして猫を見る。何処から迷い込んだのだろうか、子猫ではない。すぐに庭から立ち去ろうと幸村は縁側に急いで上がって部屋にかけこもうとした。が、縁側にぼうっとしている佐助を見つけて足を止めた。佐助は自身の掌をじっと見つめている。
「さすけ」
何を見ておる、と幸村はかけよる。と佐助はちらりと幸村に目を向けた。幸村の肩が一瞬震える。
「ああ 弁丸様。たいしたものではないですよ」
かけよってきた幸村に、ほら、と自身の掌をみせる。
蝉が、一匹乗っていた。
だがぴくりとも動かず、夏場、酷く耳障りなあの鳴き声も出さない。
「もう死んでますけどね。ま、蝉なんて一日ぐらいしか生きられませんしー」
佐助は軽く振る舞いつつも幸村の表情を伺った。ここ数日観察していて幸村が何に対しても恐怖していることは彼も理解した。故にこの干からびて動けない蝉は少し刺激が強いか、と思ったのだ。
だが以外にも幸村は手の中の蝉を眼を大きく開いて見つめていた。
「しんでおるのか」
「はい」
そうか、しんでおるのか、ともう一度復唱し、幸村は庭のほうを向いた。
目線の先には猫が一匹。
幸村は何の前触れもなく突然猫に向かって裸足でかけた。逃げようとする猫の尾を掴んで引っ張る。猫は鳴き声にならない悲鳴をあげ、もがき始めた。そしてそのまま、猫を持ち上げて木の幹に力任せに叩きつけた。
一瞬の静寂。
佐助は少し驚いたようにその様子を見ていたが、やがてそのまま立ち尽くして木元で蹲る猫を見る幸村に近づく。
間もなく、猫は絶命した。
「どうされました?」
優しく、冷たく佐助がきくと幸村は佐助を見ずに
「ころせるのだな」
「はい」
「おれも、ころせるのだな」
「弁丸様より弱き者はみな、」
と短く話した。
佐助は木元の猫を抱き上げ、静かに笑んだ。
「弁丸様が強くなれば何に恐怖する必要もないんですよ」
そのかわり、弁丸様が弱ければ殺されてしまうんです。
その言葉を幸村は黙ってきいていた。そしてもう一度
「ころせるのだな」
と呟いた。
くるりと佐助のほうを向く。佐助は猫の身体を抱いたまま歩き出す。
(さすけも、)
(さすけもしぬのか)
幸村は一度、身震いをした。
旦那、と呼ぶ声に幸村は我に帰る。近くで佐助が笑っている。どうしたのぼーっとしてさぁ、と話す。幸村はそれに笑って答えて、いや、蝉がうるさくてかなわんと思っていたところよ、と話した。
幸村は強くなった。真正面より相手に向かう。勝てると思えば、恐怖の二文字は抱かない。もっと違う何かが強さと共に成長し、幸村を埋め尽くしたからだ。あの頃の感覚はほとんど思い出せない。
そう考えていると佐助がまた軽口を叩く。
「てっきりさ、また竜の旦那と勝負したいとか、今戦場のお館様がどうだとかいうんだと思ってたよ。旦那にも余裕ができたってことかな」
「そうだろうな」
短く返した後に、幸村は身震いをした。
(あぁこれだ)
幸村は強くなった。しかし佐助には、今でも少し恐怖を覚えるときがある。まだ彼が自分よりも一瞬勝るときがある証拠だ。・・だがだからこそ彼は佐助を信頼している。そう思っている。
(この間に、一日しか生きれぬ蝉は何匹呼吸を止めたか)
木に向けて猫を投げた衝撃で、木が揺らぎぼとぼとと蝉が落ちてくる様を想像して吐き気がした。
そんなことも知らないであろう、佐助は幸村にまた、旦那?と声をかける。幸村はそれには答えず窓の外に視線を向けた。
「それにしても蝉がうるさいものよ」
断末魔と堕ちる
結構古い話。真田主従の間にある溝は深いけど、決して広くはないんだと思う。
幸村の世界観は常に戦場を前提におかれてて、日常とギャップが激しそうだ。
だから混在したり、切り離されたり忙しい。
佐助はいまいち掴めない。
遊柳の話には蝶と蝉がよく出てきます。
一種の象徴的なものです