(前日)
きいてくれますか、この俺の話。嘘みたいな本当の話。ありきたりだけどそんな話。ちょっと長くなりそうだからお茶でも飲みながらさあ。そのかったいソファーでいいなら遠慮なく腰掛けてね。急に何だって?俺が話きいてなんて珍しすぎて夏なのに雪が降る?失礼な!でもそうかもしれない。もうすぐ秋だけど、秋なんて軽く飛び越えて冬真っ只中になっちゃうかもしれない。でもお願い、今は真剣にきいて。あ、いや別に軽くきいてくれてもいいや。どっちだよ。どっちでもいいんだ。聞いてくれるだけでいいから。俺の中で整理するために。
全部ききおわった後に、言って欲しいんだ。何をって、そうだなぁ。またあとでいいですか。話し終わってからいうよ。とにかく、きいてほしいんです。
それはそれは、いつもと何ら変わらない平日の朝でして。この俺、猿飛佐助はいつものように6時起き、顔洗って飯食って歯ァ磨いて制服に着替えて出勤したんです。朝ご飯のトーストを焦がすような真似とか、靴下左右違うの履いちゃったりとかなんてのは勿論、家の鍵を締め忘れたり、いつもの駅まで行く道を間違えたりなんてこともなかった。本当に、何もいつもと変わらない朝だった。
知ってると思うけど、俺は確信を持っていえるぐらい平凡な人生を送ってきたと思ってる。公立学校で義務教育終えて、近くの中の中ぐらいの高校入って、大学は経済学部。今やってる仕事も会社の下働きみたいな低賃金の、1ヶ月なんとかやりくりして生活して来月はちょっと贅沢できるかもくらいの、でも憎めない上司や楽しい同期達と一緒ならまぁいいかと思えるような感じで。俺の人生バラ色幸福に満ち満ちていますなんてそんなことが言えるほど楽じゃないけど、満たされていないなんて言ったら今まで、そして今現在もお世話になりまくって更にこれからもよろしくお願いしてる皆さんに申し訳ありません。
とにかく俺はそんな感じに平凡だから、これは誰も経験したことないんじゃないみたいなことなんて。そう、その日も何事もなく駅のホームに向かったんです。
ほら、今から数えて丁度初夏の頃。その日は朝から結構な気温の高さで加えてそのいち、梅雨明けでかなりじめじめしてたのとそのに、プラットフォームは俺と同じく通勤、または通学で人がわんさか。まぁ何か特別快速なんちゃらとかは止まんないようなこじんまりした駅なんだけど、如何せん前後の駅が意外と遠めな所為でここでちょっとしたラッシュが起きる。もう何年も体験してはいるから覚悟の上ではあったんだけど、予想以上にしんどくて、名前も知らない人達多数と暑さに耐えながら電車待ってたんだ。
時計と線路を交互に見たり、別に遅れそうな時間でもなかったし、扉が来る丁度真ん前に陣取ってたから乗れなさそうなわけでもなかった。でも癖みたいに時計を眺めて、そろそろ特急が通過するんじゃないかなって思ってちょっと後ろに一歩下がった。多分路線によって違うんだと思うけど、ここは通過のとき減速しないタイプで、線路ぎりぎりに居ると風圧が凄いから大体みんなアナウンスが入るとその時の俺みたいに下がるもんなんだ。
俺が下がったのを合図にみんなちょっと下がる。いつもどおりだなって思ってた。そう、思ってた。
俺の右隣に、黒髪のー…いや、ちょっと茶混じりだったかな?男の人が立ったんだ。人が一杯で列が太くなってるとはいえ、乗車口でもないそこにふっ、と突然出てきたから反射的にそっちに目がいっちゃって。そしたらその人もちょっとこっちの方向いて。びっくりした。柄にもなくびっくりした。その人右目に黒い眼帯付けててね、それだけでも目立ちそうなのに反対の左目も、睫長くて美人なのにきつい感じに吊ってて、普通にかっこよかったんだ。服装は割とラフで、白カッターに青のジーパン、そのジーパンのポケットに真っ黒な携帯差し込んで……
・・・・・・・なーんて今これだけ詳しく話せてるけど、この瞬間…この人が俺の隣に立っていた時間ってのはほんの数十秒だった。この瞬間。俺がびっくりした顔してすぐ。その男の人は俺の隣からそのままふらりと、
時計が、特急の通過時刻を差してた。
と、同時にその人が線路の上に落ちてって。
え?と思う暇もなかった。俺は目が離せないまま次の瞬間 ぐしゃ
その瞬間だけ、まるで魔法にかかったみたいに世界がスローモーションに見えたよ。
その瞬間だけ、俺の鼓膜は揺れなくなって。
誰かの悲鳴で魔法は解けてまた世界がぐるりと回り始めたんだ。
小声で何が起こったと狼狽える人や野次馬気味に叫ぶ人たちに混じりながら、俺は急いで線路の上に視線を走らせたよ。急停止した電車の向こうに、あの黒髪が見えたから、目を精一杯凝らした。正直、目を背けたくなるような光景で、野次馬の中には失神した人までいたぐらいでね。白いカッターが血で赤く染まってて、青いジーパンが黒ずんでた。臓物が腹からちょっとはみ出してるのとか、もう思い出すだけでもおぞましいよ。でもね、でもねぇ…不思議なことに目が離せなくってね。グロテスクなのに、もう足とかがあらぬ方向にとか、骨の…とか、口にしなくてもわかる悲惨さなのに。
顔、その眼帯がつけられてる綺麗な顔だけ、ほんの少し血が頬についただけで、綺麗なままだったんだ。突然死した人とは思えないほど表情も穏やかで…そう、眠ってるみたいだった。
すぐに警察とか救急隊とかが来て線路を封鎖してた。電車は勿論止まっちゃって、俺もまぁそこで足止め。会社、間違いなく遅刻だなって思ったから携帯から同僚に一応連絡を入れといた。
忙しなく動き回る警察とかを眺めてると、誰か男の人が走ってきたのが見えて、興味本位で目で追った。その人は何かちょっとかっこいい紋様の刺繍が入ったカッター着て、髪をざっと後ろにオールバックにして。…失礼なんだけどヤクザかと怯むほど強面で…その強面を更に険しくさせて、でも必死に息を切らしてやってきたんだ。
あの綺麗な人の保護者かなって思った。何で“親”って言わなかったのかというと、あまりにも似てなくてね。あとこの強面の人はあっても30ぐらいで、あの綺麗な人は20になるかならないかで、まぁ違うだろうなと。
様子を見てたらその人、取り囲んでた救急隊員を押し退けてあの人の傍らに跪いたんだ。それで、顔にかかる髪を丁寧に避けて、自分の服が血塗れになるのにも構わずその体にすがりついて静かに泣いてね。声は漏らさずに、でも確かに空気を震わせて。
不思議な光景だったよ。さっきも言ったけど、あの綺麗な人の様は本当に冗談抜きで酷かったのに。そこだけ、聖書か神話か何かから切り取ったんじゃないかって、まぁ俺全然聖書も神話も知らないからただのイメージなんだけどさ茹だるような暑さとか、会社がどうとか、もうどうでもよくなってきて。電車がちゃんと走るようになるまでずっと、ずっとその場所を見てたんだ。
その日の仕事は本当に上の空だった気がする。5分に一回は無意識に手が止まってた。別にその間に何考えてるわけでもないのに、ぴたって全停止して。同僚にど突かれて「大丈夫か?」って言われて何か目からぶわって涙出てきて、柄にもなくぴーぴー泣いた。同僚達が焦って、俺も訳わかんなくて。
でもひとつだけ、瞼の裏にじりりと焼き付いたみたいに、あの綺麗な顔が見えてた。
おかしいよね、おかしいんです。だって赤の他人でさ、しかも俺に見えてるのは死に顔で。悲しいわけでも辛いわけでもなかったんだ。
その後まぁ何とか落ち着いてね。ティッシュで思い切り鼻かんで。ふと会社の窓の外に見えた青い空と入道雲に、身体のど真ん中まで染み渡るくらい、寂しくなった。
家に帰ってテレビつけたら、夕方のニュースで朝のその電車事故のことが報道されてました。ほんの数秒くらいでさらっと流れて、勿論あの綺麗な人の名前は出なかった。いつもお世話になってる駅の、あの見飽きたプラットフォームがテレビに映って、俺は思わず線路の上に視線を走らせてね。無意識だったからひとりでもんのすごくびっくりして。別の報道に変わったあとクッションにうつ伏せにうわああと自己嫌悪。あんなに自分で自分が怖いと思ったのは初めてでした。その日の夜はもう全然眠れなくて、好きなアーティストの曲をエンドレスリピート。携帯を開けたり閉めたりしながら、暑いのに毛布にくるまってずっと起きてたんだ。
なんだろう、なんでしょうね。
全てはここから始まったんです。