[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
シャフトだなんて渾名をつけられたのは何時か、思い出そうとすれば幾らでも記憶の底から掘り出すことはできるのであろうが、そうしようとは敢えて思わない。物の解体が趣味で、元々は自動車工場の解体工でもあったグラハム・スペクターが製造業技術用語に詳しいのはおかしくないし、自分の事は訊いてもないのにべらべらとよく喋るが、他人の深く突っ込んだ域には、意識的なのか無意識なのか、踏み込まないのが彼の男のふしぎなところであった。と、いっても本質的にはこどものような人なので、純粋な好奇心に駆られて首を突っ込むことも、ないことはない。
彼に付き合っている舎弟の殆どは彼の言動の理解ができず、怯えたり呆れたりの繰り返しだ、それでもついていくのをやめないのは、単純に彼が異常な喧嘩強さを誇っているというだけには止まらないとシャフトは見ている。グラハムはラッド・ルッソを慕って彼に付き纏っているが、自分たちは別にラッドを慕っているわけではない。自分たちはあくまでグラハムについて行っているのである。
毎日毎日そうやるべきことなんてものは見つからない。街のチンピラなんて、やることといえばカツアゲだとか縄張り争いの喧嘩だとか、しかしそんなことを毎日毎日行っているわけでもない。退屈は罪だと常日頃からぼやいているグラハムにそのときばかりは同調したくなるほど無駄な時間を過ごすことだってザラにある。
廃工場に集まるいつもの面子が退屈さを隠せないままくだらない世間の噂話を始めた辺りで、ドラム缶の上に王様よろしく座り込んでいたグラハムは軽い調子でそこから降り、地面に足を着けて外へと向かう。留守を預かろうとするものは少ない。それを見た瞬間に、そこに居た誰も彼もがその退屈で重い腰を上げ、気まぐれなボスの背中を追いはじめるのだ。期待と不安を抱えながら。シャフトだとてそれは同じだ。
表でしんしんと雨が降っていたって、グラハムは簡単に足を踏み出す。
「悲しい…悲しい話をしよう」
聞き慣れた口上は、傘にぶち当たる滴の音でくぐもっていても理解できる。とぼとぼと、ゆらゆらと、右手にはいつものモンキーレンチをぶら下げて歩く姿はさながらホラーだ。以前もこんなことがあった。その時は律儀に雨の日にうろつく青い怪物のようだと口にして、後ろ手に腹をレンチで殴られた。二度も同じことをしては芸がないから今回は沈黙を守ってみる。
「かつて古代ギリシャの偉大なる哲人達は、退屈を持て余して世界の起源について語り合った…はじまりは火か?水か?この問題は実に、とてつもなく途方にもないくらいに大きい問題だ。下手すれば自分自身の存在すら疑うことになりかねん、つまり俺は火から生まれてきたのか?それとも水から生まれてきたのか?はたまた原子とかいう小さい粒の集まりなのか?哲人たちの答えはてんでバラバラだ!俺を火だとも水だとも言う!だとしたらなんだ?万物はその身を火に、水に、土に風に血に雨に岩に病に植物に内蔵に太陽にその他全てを晒せば混ざって交ざって雑ざって判別がつかなくなるくらいまでグチャグチャになってしまうものだとでもいうのか?……悲しい、悲しすぎる……退屈がかの哲人たちにもたらしたものはなんだ?悲しみ、この暗くて虚ろな混沌たる悲しみだけじゃないのか!?」
次第に上がっていくテンションのおかげで、ながい長い語りの最後はシャフトの耳にもはっきりと聞こえた。雨足が強くなろうがお構いなしらしい。ゆらりと揺れた右腕と共にレンチがふわりと舞い、傍らの壁にガツリとぶつかった。
「それから2000年以上の時が過ぎても、退屈というものはこうも人を悲しくさせるものらしい……こうしている間にそいつは音もなく俺たちの背後に忍び寄り、時間を持て余す俺たちの存在すらも揺るがす考えで世界を支配するわけだ」
しかし次の瞬間には一気に沈んだ重たい声で、再び何かをぶつぶつと呟き出す。
「だがもし……そうもしもの話だ、もしもこの瞬間、俺の目の前に一台の車だかトラックだかダンプカーだかマフィアだかチンピラだか殺し屋だかテロリストだかが現れてみろ……たった!たったそれだけで俺たちは!厳密に言うと俺は!この2000年の時を越えても尚人類の敵として暗躍し続ける奴を!いくつもの部品と共に破壊できるというのに!!」
歩いているのは、人気も少ない裏路地だった。この雨の所為で野良猫一匹見当たらない建物と建物のあいだで、男の狂った口上と硬い金属音が雨音と共に響いている。思わずため息を吐いた。今日はずっとこんな調子だろうか、いや、本人の口にする通り今目の前に何らかの「物体」が現れたなら、澱みに澱みきったその青い眼を大きく開いて、楽しい話に移行していくのであろうが。
思えば、いつもグラハムは何かを確かめるように言葉を放ち、腕を回し、足を動かす。こうして雨の中彷徨っている姿も、まるで失くしものを探しているみたいだと、ゆらゆら動く青い背中と金色の後頭部を見ながら考える。何を探しているかなんて、知らない。何を失くしたかなんて、…実に常識的に考えてグラハムには欠けたものがたいへん多いとは思うが…そんなことはわからない。
「……? ………」
唐突に、目の前のからだがぴたりと止まった。同時にシャフトも足を止める。雨だけが空から降り続いている。しばらくするとグラハムは、すん、と軽く鼻で息をした。そしてきょろきょろと周囲を見回し、すぐに一方向へ視線を固める。その様子にシャフトは傘を持ったまま少し首を傾げた。
「どうしたんすか、グラハムさん」
「……旨そうなにおいがする」
「は?」
「実に、…実に芳しい香りだ。そういえば朝パンを一口齧ってから何も胃の中に入れていなかったな……先ほどからちょうど腹の真ん中らへんがきゅるきゅる音を立てていたのはそういうことなんじゃないのか?」
「気付かないって、それグラハムさんが人間としてちゃんと機能してないってことですよ。大丈夫ですか?」
「このにおいは…なんだ?何かを焼いているような……そう、香ばしい、香ばしいにおいだ!」
そう言うなりグラハムは、元気にばしゃばしゃと水たまりを踏み抜きながらその方向へと駆け抜けていく。え、あ、ちょ、…と、シャフトが言葉にならない声をあげている間、あっという間だった。傘を持っていない方の手で顔を抑えてため息を吐く。
そんな彼の後方にいた仲間の一人が、グラハムさんすげえ嗅覚だな、とぼやく。なぁ香ばしいにおいなんかするか?と違うひとりが先ほどのグラハムのように鼻を動かすが、その隣に居た奴が肩を竦めて湿気たにおいしかしねえよと返した。そりゃそうだ、この雨なんだから。
「追いかけなくていいのか?」
追いかけなければならない。放っておくと何をしだすかわからない。あの人が大人しくしているなんてまず有り得ない話なのだから。
少し早足で歩き出そうとしながら、シャフトはやはり考える。探し物のことを。失くし物のことを。何かを探して歩き回っているのはなにもあの人ばかりではなくて、多くの『自分』の目を通して見る世界の、その殆どの人という人が今日も虚ろに彷徨っているというのに。
「おい」
前方から声をかけられたことに一瞬反応が遅れた。傘を少しあげてみると、知らない顔が複数あった。あからさまに少し顔を顰めて見せる。知らなくても、その人相や態度や風貌を見ればどんな奴らかは推測がつく。自分達と同じような街の浮浪者だろう。
「……何か用すか?」
本当は、訊かなくても大体要件は掴んでいた。
「お前ら、あの廃工場に集ってる奴らだろ」
あからさまに好戦的な眼でリーダー格の男がシャフトを見下ろす。こんな街の片隅での、それも小さな不良集団同士の揉め事は、先に言った通りしょっちゅうそんなことばかりしているというわけではないが、よくあることだ。しかしまだ『知らなかった』ということは、新参の集団なのだろうか。見たところそれなりに体格のいい男たちが揃っている。
「アジトからのこのこと出てきてくれるなんて、ついてるねえ、俺たち」
なるほど、雨の日だからか。さてどうしようか。手の骨をばきばきと鳴らして下卑た笑いを浮かべる男たちを余所に、後ろの仲間たちへ視線を送った。荒事がそこまで得意なわけではないが、仮にもグラハムについていくような連中だ。やるとなれば勿論やることはやる。
傘を畳んだ。地面に先を向ければ、その表面から水が滴って小さな水たまりを作った。それを合図にしたか、何かしらを叫んでリーダーであろう男が飛びかかってくる。その動きを見ただけで、ああ大した奴らではないなとシャフトは冷静に判断した。避けることは考えなかった。もし得物を持っていたりすると面倒だから、多くを切り結ぶ前に一撃で決めた方がいいと思ったからだ。
しかし大きく振りかぶった男の拳がシャフトに届くことはなかった。
「ぐぼぁっ!!??」
「!?」
凄まじい殴打音がして、男が前のめりに倒れる。想定外の動きに慌ててシャフトは体を後ろへ引いた。男の近くに何かが転がる。雨で視界が悪くてもよくわかる、見慣れたものだった。
「な、なんだぁ?レンチ…?」
それは相手の男たちより更に後方から、さながら銀色の円盤の如く回転しながら飛んできた。驚きを隠せないまま飛んできた方向を振り返る彼らとは逆に、この時点で何が起こったのかを理解したシャフトたちは、そのまま一歩、二歩と後ずさりを始める。
そして、雨の音も切り裂くように飛んできた声も想像通りのもので、あるものは安堵にも似た息を吐き、あるものはむしろ恐怖をあらわにしようと、したのだが。
「…むぐむぐ、む……っうん。よし……楽しい、楽しい話をしよう」
雨のせいではない、しかし明らかにくぐもっているそのいつもの口上に、誰もが一瞬気を抜いた。それほどまでに間抜けなものだった。完全に雨に濡れきったその艶やかな金の髪から滴をぽたぽたと落とし、右手で握りしめたレンチを肩に担ぎながら、声の主は、グラハムは、空いた左手で何かを持っている。そしてみっともなく大きな口を開けてその左手に持っているものに齧り付いている。
視界の悪さで確認しにくいが、パイか何かの類だろう。紙にすら包まれていないそれを、ご丁寧に手袋をとった手で掴んでいた。ああ、さっき言ってた「いいにおい」の正体はそいつだったのか、とシャフトは呑気に思い当って心の中だけで頷いてみる。
「実に旨そうなにおいに誘われて表の通りへ足を運んでみれば、見ろ、こんなに見事な菓子を作っている店に俺は出くわしたわけだ…!店先の看板がOPENになっていたからとりあえず中に入ってみた俺は、丁度厨房からできあがったばかりのこいつと運命の対面を果たし……」
「ええっ、ちょ、まさかグラハムさんその濡れ鼠のまんまで店入ったんすか!?非常識にもほどがありますよ!」
思わず離れたところから大声で突っ込みをいれてしまって、ふたつめのレンチが場に飛来した。銀色の円盤はシャフトのすぐ傍らの壁に勢いよくめり込む。
その常識埒外の光景に、見知らぬ男達が息を飲む音が聞こえた。
「……この運命の出会いの感動をお前たちにも伝えようと思って急いで引き返してきた俺の前に、なんだ?何とも壊し甲斐のありそうな奴らが居るじゃあないか!シャフト、お前こんな楽しそうな状況を俺に黙って自分たちだけでなんとかするつもりだったんじゃないだろうな?」
「勝手にいなくなったのはグラハムさんの方じゃないですか!」
至極もっともなことを言ったのだが、機嫌のよくなってしまった彼のボスに聞き入れる耳はなかったらしい。ちょいちょい、とシャフトに向かって右手の指を動かす。
「ここは気前良く俺が奢ってやろうとおもっていたんだが…シャフトだけ自腹決定だ」
「俺だけ!?」
傍から見ればふざけているとしか思えないやり取りを途切れさせることなく、シャフトは壁をめり込ませて地面に転がったレンチを拾い上げた。そしてそのまま躊躇うことなく高々と放り投げる。大きく宙に舞い上がったそれは、男達の頭上を悠々と飛び越えてグラハムの右手のなかにしっかりと収まった。
最後のパイの欠片を口の中に放り込み、十分に咀嚼してからグラハムは、楽しそうに、そう、実に楽しそうに、しかし獰猛で狂気じみた笑みをその顔に浮かばせる。右手のレンチをぐるりと一回転させて、彼は湿った地面を蹴った。
ゴきり、ごきっ…という耳障りな鈍い音が、まだ降り止まない雨の中に重く沈み、男たちの悲鳴がその場に大きく木霊する。
仲間たちは、誰一人として手出ししようとはしない。一度は畳んだ傘を開いて、既に傍観者の姿勢だ。グラハムによる一方的な蹂躙の様子を、固唾を呑んで見守る者、僅かばかりの恐怖を滲ませるもの、むしろ少し楽しそうに口角を釣り上げるもの、それは様々だった。シャフトは静かにそれを眺めていた。既に幾人もの人間がその場に転がっていたが、死人は出ていなかった。そして動くものがこの場に誰一人としていなくなったとしても、きっと死人は出ないだろうことを確信していた。
雨足も少し弱まった時分には、すべてが終わっていた。
「おつかれさまです、グラハムさん」
倒れる肉塊の群れの中心で上機嫌なグラハムにシャフトは歩み寄る。当のグラハムは人の関節を思う存分壊した快感からか、舎弟の顔をまじまじと見ることもなく両腕を広げて天を仰いでいた。
「おおシャフト。さっきは遠目だったからよく見てなかったが、なんだ、無事そうだな」
「なんでちょっと残念そうなんすか。…まぁ、手ぇ出される前にレンチがぶっ飛んできましたから」
それより勝手にふらふらどっかいっちまうのはやめてくださいよしかも何ひとりで飯食ってんですか、と、呆れたため息と共に吐き出そうとしたときだった。
ぐぎゅるるるるる
「あ?」
「………」
別に、なんということはない。朝からパン一枚齧って何も胃におさめていないのはシャフトも同様であったというだけのことだ。しかし普段は散々グラハムに皮肉を言ってきた手前、どうも気恥ずかしさが彼を包む。
「……くくくっ、ははははははは!!」
「な、なにがそんなおかしいんすか!」
「いいや!そうだ、腹を空かすという行為は人間としてごく自然かつごく当然の現象だ!なにせ腹が減っては戦ができぬと言われるほどに重要なことなんだからな…つまり!腹の虫は!俺たちの存亡に関わる一大事を知らせてくれている!」
一頻り笑ったグラハムは、一番はじめにリーダー格の男に向けて投げつけたレンチを拾い上げ、そのままぶんと振り回してシャフトの眼前に突きつける。凶器を前にしてシャフトは羞恥で少し顔を赤らめたまま、大人しく体を硬くした。
「そんなお前の生存本能に俺は敬意を表しよう!さぁ来いシャフト。自腹は撤回してやる」
片目をすっかり覆い隠している長い前髪は、雨に濡れてすっかり肌に貼りついていたが、その隙間から覗く眼は無邪気な青い色をしていた。思わず更に表情まで固めて呆気にとられた顔をするシャフトを見て満足そうに笑みを浮かべ、容易く踵を反して先来た道を引き返し始めたのである。
いつだったか、仲間の一人が何気ない話の中で口にした。自分がはじめてグラハムさんに会ったのは、その時つるんでいた仲間と共にリンチにあっていたときだったと。ナイフが自分に突き立てられようとしたまさにその瞬間に、あの青い作業着の怪物は現れたのだと。遠慮や手加減という言葉は知らないというように暴れ回り、全員転がしたところで清々しそうな表情のままその場でぐるぐると三回転ほどしてみせたあと、何食わぬ顔で自分達に飯を食わないかなどと首を傾げて尋ねてきたらしい。血塗れな上に鼻っ柱も潰れて、ひどい顔をしていた自分達に。
何かを探して彷徨っているのは俺たちも同じか。
いや、他の奴らのことはよくわからない。だが少なくともシャフトは……『シャム』は、この意識の中で強くそう思う。それが探し物なのか、失くし物なのかはやはりわからないけれども。
グラハムが雨の中うまそうに頬張っていたパイは、確かに大層うまかった。気前のいい店の主人は、常人が聞けば逃げ出したくなるようなグラハムの口上にも笑って対応し、明らかにチンピラの風貌の自分達全員分のパイを渡してくれた。
果物の酸味と甘味が口の中に広がる。それを楽しみながら、少なくとも、退屈な哲学を繰り広げることはないのだ、あの人の前では、と、少しシャフトとしての視界を閉ざしながらシャムは思った。
そういえばこの渾名はいったいどうやってついたんだっけか。
視界を開いて、ふと、以前はどうでもいいと判断したことを気にしはじめる。あの人がつけたんだっけか、それとも別の誰かがそう呼び出したんだっけか。思い出せても思い出せなくてもべつによかった。誰かに尋ねようとも思わなかった。ましてやあのグラハムが、そんな些細なことを覚えているはずもないと、シャフトは信じていた。
失くした部品
部品(パーツ)って読みます。
グラハムさんが失くした部品が軸なんだろうねって思ったところからうまれた話でした。
かいてて実にたのしかったのでお気に入り。