薄暗い廃工場の奥に、光が射していた。古くなって錆びてきた大型の機械やらがまとめて放置されているような、普段なら目にもつかないような場所にである。現在この廃工場の、非公式ながら所有者といってもいいグラハム・スペクターがそれに気付いたのは、その場所から水音がしたからだった。
肩にレンチを担いだまま少し首を傾げる。近づいてみると、光はその下に広がる水溜まりに反射してきらきらと輝いていた。はて、確かに昨晩は雨だったがどうしてこんなところに水溜まりができているのだろうか。顔をすいと上方に向ける。眩しい陽の光のなかで天井に空いた穴を確認し、ようやくグラハムは、ああ、と納得したように息を漏らした。
昨晩からゆるく降り続いた雨の名残がそこから地面にまっすぐ落ちて音を立てている。
そこでグラハムはレンチを顎にくっつけ、むう、とちいさく唸った。別に毎日ここに集ってこの場所を見ているというわけではないがこの穴にはてんで覚えがなかったのである。今まで気が付かなかったということは、ないはずだ。特に自慢でもないしグラハム自身にそこまで大きな自覚もないが、こういった妙な細部の変化に彼は敏感だった。この工場も随分と年季の入った代物であるし、単に老朽化によるものだろうか。ボロくなったところに木片でも飛んできたのかもしれない。いずれにせよ、何かがあの部分を朽ち壊したことは事実だ。
工場内はまだ静かで水音以外には何も聞こえなかった。規則正しく滴り落ちるそれを、黙ってまじまじと見つめてしまった理由は、グラハムにもよくわからない。そうしながらぼんやり考えていたことは至極単純で、また実にグラハムらしい内容で、それを内側でのんびりと揺らしているということが基本的にできない人種である彼が次にとった行動も、実にわかりやすいものだった。
「あ、グラハムさ、」
聞き慣れた舎弟の声が脳髄まで届く前に、グラハムはゆっくりとレンチを持つ腕を振り上げて、一気に振り下ろす。
鉄の先端は真っ直ぐに水溜まりの中心を捉えていた。コンクリートを打ちつけた鈍い衝撃と同時に水が派手に飛び散る。その一部は周囲に散乱した物々と、グラハムの青い作業着を悉く濡らす結果となった。
「・・・何やってんすか?」
「んん?ああ、なんだシャフトか。遅かったな」
背後からかけられた呆れ声に全く何事もなかったかのように振り返って、いつもの調子で返事をする。水溜まりから引き揚げたレンチの先端からはぽたぽたと止めどなく滴が落ちていたが全く気にした風もなく再びそれを肩に担ぎあげた。
「まぁ聞け、これは悲しい話だ。・・・いや、人によっては非常に有り難い話であって安心する話であって、引いては嬉しい話になるのかもしれないが、今現時点を以て俺にとっては自身の存在をも揺るがすほどに悲しい話だ」
「んな大袈裟な・・・で、何なんですか?」
「いや、水は壊せねえなあと思って」
レンチの先端を左の手のひらに乗せ、ぐるりと首を捻りながらさらりと口にする。口にしてからふと目の前の舎弟に目を向けて、おや、と思った。平時ならそこでため息のひとつでも吐いて何やら皮肉めいた言い方で遠慮なしにずけずけと切り返してくるはずなのだが、不自然なくらい男は無表情のまま、口を固く引き結んでいたのである。
「どうした?俺が水を壊したいとか思ったことを非難したいのか?」
「・・・グラハムさんが何かを壊すことを非難したいのはいつものことですが」
「うん、まぁその感情には納得ができる。何故なら人間の体の約六割だか七割だかは水でできているというからな・・・つまり水が壊せてしまったら、俺たちの体の約六割だか七割だかは解体できてしまうということだ。これはとんでもないことだぞ・・・俺は人の関節の解体方法は知っているが、そんなこととは訳が違う!しかも六割七割ってそれはもう半壊どころの話じゃないな、六割・七割壊だ!そこまで壊れてしまったらもうそれは人間とは呼べないんじゃないか!?」
「俺の話、きいてます?」
そのときにはもう、すっかりすべてがいつも通りだった。いつの間にか怖いもの知らずになっていた舎弟の困ったような表情と投げやりな声に、グラハムは無意識ながらに口元をゆるめて喜んだ。
たとえあの無感動な顔の奥にどんなものを潜ませていようと、それに幾らか気の付くようなことがあっても、自分にはどうしようもないなと思っている。グラハムは覚ることは得意だったがそれを活用する術を知らなかった。そしてそこに危機感を持つことを知らなかった。
昼間も薄暗い路地の途中、息を切らしながらシャフトは右肩を少し壁に寄りかからせた。背中の重みだけは決して刺激しないように、自分の負担は大きいが腰をできるだけ前に屈ませてそろりと支え直す。ふと後ろの地面を見遣った。僅かに血痕が道をつくってしまっている。はやく辿りつかなければと思いながら、このままでは追跡を許すことになってしまうと意識が冷静に判断している。仕方ない、仕方ない、そう仕方ない。確かめるようにそう何度も反芻してから、シャフトは少し早足でその場を駆け抜けた。同時に、深い意識の底でここから一番近い『自分』を動かし始める。要は追われなければいいのだ。全く予定外の行動ではあるが、そう、仕方ない、仕方ないのだから。
駆けるシャフトの背中で泥のように意識をなくしているのは、グラハムだった。脇腹と肩の辺りから出血しているのは明らかで、それが鮮やかな青い作業着を黒ずませている。傷口から推察するに銃弾によるものであった。致命傷には至っていないが意識がないのは失血のひどさが原因だろう。全身からすっかり力を抜いてシャフトの背中に張り付いていた。
その背中越しに伝わるわずかな熱と心臓の音で、まだ彼が生きていることをシャフトは確認し続けている。いや、そんな銃で一発二発撃たれたぐらいで死ぬような人じゃない。わかっている。それは一番近くでずっと見てきた自分がよく知っていることのはずだ。それでもシャフトは焦ることを止められなかった。他の数多くある『シャム』の個体も揺るがしてしまうほどに彼が狼狽しているのは、あのグラハムが銃弾の前に倒れたことだけではなかった。
(俺が撃った!)
闇医者のもとまで疲労も忘れて走り抜けていく最中、彼の意識の中ではずっと同じフレーズが響き渡っていた。
(俺がグラハムさんを撃った!)
すうすうと穏やかな寝息を立てているグラハムの側で、椅子に腰かけながらシャフトは両手で顔を押さえていた。いつもの呆れや嘆きによるものではない、いや、嘆きの感情は確かに存在しているが、いつもとは違う、殆ど羞恥によるものだった。
飛び込んだ診療所のなかで、意識の中の冷静な自分が驚いてしまう程に動揺した様子で医者に状態を説明してしまった。大丈夫だから落ち着きなさいと医者に諭されようやく滑る口を閉ざしたシャフトだったが、今度は異様なほど無表情になって治療の様子を近くで眺め始めて、遅れて駆けつけてきた他の仲間たちに心配された。俺のこと心配するくらいならグラハムさんの心配したらどうなんだと、少し調子を戻してようやく返して見れば、あの人なら大丈夫だって信じてると誰もが口を揃えた。
そんなの俺だって。
信じているのは嘘じゃないが、それをちゃんと公言できないのは、負い目があるからだ。グラハムの肩から脇腹にかけて巻かれた真新しい包帯を目でなぞる。この体に穴を空けた銃弾は、全て『自分』が放ったものだった。
意図して撃ったが意図した結果ではなかった。気付いていると思っていたのだ。街の一角を練り歩いて活動している愚連隊の一派にすぎないのに、どこまでも破壊衝動と好奇心に任せていろいろなところに喧嘩を売りまくるグラハムは、このあたりでは既にちょっとした有名人、否、危険人物になっていた。それでも一応ヘッドとしての自覚はあるのか、本当に敵に回したら誰も無事では済まされないようなことには首を突っ込まなかったし、たとえそんなことになったとしてグラハムなら舎弟たちをそれに巻き込む真似はしないだろう。
今回は、どちらかと言うと喧嘩を売られた方ではあった。それほど大きなマフィアというわけではない、しかし何がいつもと違ったかというと、その組織の中に『自分』がいたことだろうか。完全に下っ端というわけではなく、しかし重鎮というほど組織に食い込んでいるというわけでもなく。実に中途半端で目立たないところに、『自分』が居た。
数人と共にグラハムの元へ赴いたとき、既に『自分』は、シャムは把握していたことであるが、そこにはグラハムとシャフトだけが居て、他の仲間はいつも集っている工場内か、もしくは別のところに散っていた。だから抗争というほどの事態にはなっていない。グラハムひとりに対して何人かの人間が揉みあっていただけだった。そんな中で、一応構成員のひとりである『自分』が手を出さないのではさすがに恰好がつかないと判断し、徐に懐から銃を取り出してグラハムに狙いを定めることにした、それだけだった。
グラハムなら避けられない距離ではない。もしくはレンチで弾き返してむしろこっちに当たるかもしれない、と予想していたのに反して、放った弾丸は避けられることも弾き返されることもなく、真っ直ぐにグラハムを撃ち抜いた。
はじめに脇腹を貫通した。そこで初めて何かに気付いたようにグラハムがこちらを見た。一瞬の動揺が走ったが、意識の底の冷静な部分が、そこで怪しまれることを拒絶してしまった。だから、二発目も撃った。それは恐らく避けようとしたのだろう、しかし体のバランスが取れずそれは肩にぶち当たった。
よろめき、前のめりになったのを地面にレンチの先を立てることで阻止し、グラハムは少し血を吐いた。そこでシャムもようやく、自分がしでかしたことに気づき始めた。まだ動けた奴らが好機とばかりに飛び込んでくる。それをふらつきながらも何人かの関節を外すことで阻止し続けるグラハムの下に、シャフトはそこにあった煉瓦の破片を抱えて駆け出した。
「グラハムさん!」
迫ってきた男の眉間を煉瓦で力任せに殴る。既に彼を撃った『自分』はその場から退散させていた。とりあえず他に動くもののいなくなったとき、ようやくグラハムはその場に膝を付き、そしてそのままばったりと倒れ込もうとする。
「グラハムさん!?」
慌てて煉瓦を放り捨てて体を支えた。どうやら全体重を投げ出しているらしく、支えた瞬間思った以上の重みが圧し掛かる。しかし寸で無様に潰されるのを阻止し、なんとか抱え起こして背に回した。ぬるりとした感触が、手に、服に、背中に纏わりつく。
見慣れたはずのものがひどく恐ろしいものに感じられて、背筋を冷たいものが走った。腕が震える、しかし悩んだり躊躇ったりしている暇はない。他の倒れた体を踏み越えながら、シャフトはすぐにその場を離れた。
殺すつもりではもとよりなかったため、撃った箇所はどこも致命傷にはなっていない。傷さえ塞がれば問題なく動けるだろうし、グラハムはもともと傷の治りがはやい方だ。しかし、だから大丈夫、大丈夫だと『自分』に言い聞かせている様は何とも情けない、いや、最低なことだとシャムは思った。撃ったのはシャフトではなかったのだから、あのシャムの立場としてこれは『仕方のない』ことだったのだから。言い訳の数々は生まれれば生まれるほど『自分』を追い詰めていくような気がする。
平時は静まってほしいと思っても懇願しても静かになどならないグラハムが、今はおとなしく寝台に収まっていることが既に落ち着かない。まだ先程の、鎮痛剤を打つ前に痛みで無意識だろうが暴れていた様子をみている方がましだった。
もう何時間もそんな状態が続いた。陽が傾きかけた頃、ふと寝台から聞こえた呻き声で意識を戻してくる。目を覚ましたわけではないが、どうやら薬の効果が切れてきたらしい。手早くシャフトはサイドテーブルに置かれていた注射器と液体を確認し、徐に手に取ってグラハムに近づいていく。本当ならここで医者を呼んでくるべきなのだろうが、幸いなのかそれともこの場合はあまり良くないことなのか、注射器なら普通に扱えてしまえるシャフトはそのまま慣れたように針を刺した。更に布を二枚ほど出してきて、一枚で汗を拭ったのちにもう一枚を裂いて針を刺した箇所に宛がう。一連の作業を終えたら、再び椅子に座り込んで頭を抱えた。既にここに来たときに晒した醜態に対する羞恥は消えている。大丈夫だと信じているかどうかは全く免罪符にならないのだ、行き場のない憤りがどこともなく浮遊して、まるで今から夜が来ることに合わせるかのように罪悪感が意識を蝕んでいた。
それでも、肉体の疲労による眠気は必ずやってくる。シャフトの意識は陽が落ちてから明け方まで途切れていた。意識を戻してきたとき、ぼんやりとした視界のなかで、寝台の上の体が上半分起き上がっているを確認する。目を擦り、に、さん、瞬きしたのち改めて覗うと、グラハムがいつもの半開きの澱んだ眼をこちらに向けていた。
シャフトは一瞬、息を詰めた。
「・・・おはようございます、グラハムさん」
そうして発した第一声は、何とも言えず間抜けなものだった。
「ああ、・・・そうか、暗いが今は朝なのか。なぁシャフト、俺は昨日の昼あたりから全く記憶がないんだが、もしかして半日以上も惰眠を貪ってしまったのか?」
なんという悲しい話だ、と続いた口上は、顔を押さえようと腕を持ち上げたところで突然止まってしまった。その由をすぐにシャフトは理解する。肩の痛みだ。
「無理しないでください。塞がるまでしばらくかかるってフレッドさんが」
「くそ、悲しい、悲しい話だ・・・!俺の左腕を動かすことにこれだけの負担をかけるとは!やはり銃は好かないな、もうこうなったら世の中の銃という銃を片っ端から奪いまくって全部解体しちまいたいくらいだ・・・そうすれば世界平和にも一歩近づくんじゃないのか?やばい、どうやら俺は神から与えられた自分の運命ってやつに自分で気付いてしまったよう・・・っっ!!」
「いやあの、喋らないで大人しくしていてくださいって。傷口開いたらどうするんです」
ゆっくりと肩を押して寝台に押し戻すと案外素直に横になった。
「まだ痛いんなら、薬ありますけど」
「いや、いい。動かなきゃ問題ない」
言いつつ、体が動かしたくて仕方ないのか首をきょろきょろ回したり、指先を動かしてみたりと、忙しなく体のどこかが動いている。シャフトはため息を吐いた。しかしそれは、いつものように疲れたものではなく、安堵の色を抱えたものであった。
グラハムは、目覚めてもシャフトに何も訊かなかった。
意識がなくなった瞬間をしっかり記憶しているようだから、恐らくあのあと自分たちがあの場から逃げ出したのだということは理解していただろう。しかし、あの放たれたマフィアの刺客はどうなったのかとか、自分を撃ったのは誰なのかなど、それに関してのことは何一つ訊いてはこなかった。
憶測でしかないが、頭で理解はしていなくても、どうなったのかは何となくわかっているのかもしれない。だとしたらグラハムを撃ったのは『自分』であることも、或いは悟られている可能性があると考えて少し肝を冷やす。
ありえない、大丈夫だと思っているが、その考えを否定できないのはグラハムが銃弾を避けなかったからだ。あれくらいなら余裕だったはずだ、どうして避けなかったんですかと、直接グラハムに聞きたくて仕方がなかった。
もしくは、すみませんでしたと、一言でもいいから頭を下げさせてほしかった。
未だ体の節々にそれなりの違和感は残っているが、医者からも許可が下りたので久しぶりに廃工場へ赴いてみる。足を踏み入れてしばらくすると、水音が耳に飛び込んできた。そこでああそうだ天井に穴がということを思い出し、ついとそこへ目を向けた。
気配もなく、まるで風景と一体化しているかのようにそこにはシャフトが佇んでいた。丁度以前、水溜まりと穴に気付いたグラハムが居た位置だ。完全にグラハムに背を向ける格好で、表情は窺うことができない。そういえば、入院している間甲斐甲斐しいほどグラハムの世話を焼いていたシャフトだったが、昨日の晩あたりからあの診療所にはいなくなっていた。流石に昨日の晩から此処にいたんじゃないかという発想を鵜呑みにするほど、グラハムの常識は作用していたが、しかしその考えが真っ先に浮かぶほど身動ぎひとつせずにそこにいる。
やがて、シャフトの方がグラハムに気づいて振り返った。退院許可出たんですか、という言葉と同時に水がしたたり落ちて音を奏でる。いや外出許可だけだと珍しく短い言葉で返して、グラハムは己の舎弟の顔を見た。
「天井、直します?」
心なしか以前よりも大きくなっているような気がするその穴を指差して、シャフトが苦笑う。
「別にいいだろ、そんなの」
もともと老朽化の激しい建物だから。直すことにそこまで意義を感じなかった。むしろここまで壊れたなら一気に壊してしまった方がいいに違いない、その方がこの建物にはいいに違いない。自分達には、集う拠点がなくなるからあまり宜しいとはいえないが。
天上から滴り落ちた水は、工場のコンクリートの形を少しずつ変えているようだ。できあがった水溜まりはその中心に向かって少し窪んでおり、その形が、そこから他の場所に水が流れるのを阻止している。水は壊せないのに水は物を壊せるんだな、ふとその事実に思い当って右腕にぶら下げていたレンチを肩まで持ち上げた。単純に、すこし、悔しいと思っただけのことである。
無知をしらせる水音
最初と最後のは実は真ん中とは別で思いついたものだったんですが、はじめとあとにくっつけた方が締まりがいいしテーマもそろってるなと思いくっつけてリファインしました。
異常だけど人間なグラハムと普通だけど人間じゃないシャフト=シャムの組み合わせには夢が詰まってる。