部屋の隅に引っかかっていた蜘蛛を殺した。殺そうと思っていたわけではないが、結果的に蜘蛛は死んだ。

眩しい朝の光のもと、その死骸は窓辺で動かなくなった。八本足のひとつが?げてその近くに転がっている。破れた腹から蜘蛛の子が四方に散った。常時目を閉じていた子供が、そのとき珍しく両目を見開き、その不気味な光景をじっと見つめはじめた。やがて窓辺には死骸だけが残されて、じりじりと焦がすように太陽が照りつけている。


蜘蛛を殺した。殺した中から、新しい命が産まれていった。





























殉教者の多い場所だから墓の場所にも困る。石を置いた上に更に石を重ねて土をかぶせ、その丘はここまで高くなったのだなんて噂も流れるくらいだ。私たちは、戦士になったとき皆一様に自らの名を刻んだ墓石を持つ。女神のために命を投げ打つ覚悟をそこに示す。

本当はこんなこと、ばかばかしいとどこかで思っていた。確かにいつ死ぬともしれない世界だが、死ぬことを前提に成り立つ場所などそれこそ女神に対する不敬だろう。けれども私も墓石に名を刻んだ。不格好なその石は、今も聖域のどこかで眠っている。私が死ぬときを待っている。









デスマスクが死に、シュラが死に、カミュが死に、アフロディーテが死に、…そしてサガが死んだその日、私たちは彼らを埋葬すると共に、反逆罪でかつて持っていた墓石を壊されていたアイオロスの墓石を作った。その石の下に体はないが、これが私たちにできるせめてもの償いと、皆で手を合わせた。
墓と葬式はきっと、生き残ってしまった人間のためにあるのだと、もう20にもなったくせに未だ昔から変わらず涙腺の緩いミロに言う。わかっていると目を乱暴に擦る彼は、なかなか泣き止まなかったが気の済んだところでもうすっかり前を向いていた。子供のように剥き出しの感情しか持たないが、彼は私がおもうよりもずっと強く成長していた。

私はどうだろうか。

アイオロスの墓石の前に膝をついているアイオリアをかえりみた。ただ黙々と祈りを捧げている。向けられた多くの憎悪を力に変えて、がむしゃらに強くなることを願い続けてきた彼は、今ようやくその追い立てるような声から解放されたに違いなかった。

私は、どうだろうか。まだ追い立てられているのだろうか。









サガが師を、…教皇シオンを殺したのだということを本人の口から聞いても、私の心は何も動かなかった。ああそうか、やはりそうだったかと納得の声を漏らしただけだった。既にあの日から13年の月日が流れてしまっていた。かつて彼に抱いた憎悪や軽蔑の心は、長い月日が淡いものに変えてしまっていた。それを残念にすら思わない私は、きっとサガが贖罪と銘打ち命を投げ出していなかったとしても、彼を許しただろう。女神がそう言ったからではない。もう私は誰に庇護される存在でもなくなっていたからだ。



戦士になろうと思った。

アイオロスの墓石に文字を刻みながら、私はかつて自らの名を墓石に彫ったときのことを思い出す。いつ訪れるかわからない終わりを恐れるのではなく、いつ訪れるかわからないからこそこの命を使い切ってみせると誓って。
ミロ、アイオリア、貴方たちも刻みましたか。ここに、自らの名を。
不可思議な質問に首を傾げながらも、ふたりは素直にそうだと頷いた。聖衣を授かったときに刻むように言われたなそういえばと、今ようやく思い出したというようにミロが顎に手をやる。なら貴方たちの墓石もこのどこかにあるのでしょうね。そういうことになるな。…そしていつか俺たちもこんな風にたてられる時が来るのだろうな。



そのとき、この石の下に私たちの体はあるのだろうか。

いや、あるかないかは本当はどうだっていい。私たちはそれで、何かをここに残せるのだろうか。死を漠然と恐れていた幼い時期は通り過ぎ、私たちの目の前には大量の犠牲の躯が突きつけられ、それでも私は、未だに死を受け入れがたく思っている。





「おい、そういえばシャカの奴はどうしたんだ。来てないのか?」
ミロが唐突にあげた声で我に返る。そういえば、昨晩今日のことを知らせたというのに彼はここに姿を現していない。
「まったく、幾つになっても仕様のない奴だなあいつは」
「呼んでくるか?」
「もう終わりますし、別にいいのではないですか。それに自発的に来なかったのだとしたら呼んだとしても来ませんよ、あの人は」

だって昔からそうなのだから。人並み外れて強く凪いだ小宇宙を持ちながら、ロクに訓練にも参加せず部屋にこもって瞑想を続ける彼に、誰もが呆れのため息を吐いた。ときどき外に出てきたと思えば言っていることは意味が分からないし、まるでこれも瞑想の続きだといわんばかりに目を閉じたまま歩く彼は、同じ人間だというのに不気味で、理解できない生き物だったに違いない。



多くの同胞たちが死んだ。そのことを私と同じように、ただ落ち着いた様子で受け入れた彼は、いったい何を思ったのだろう。これもひとつの運命の道だと思ったのか、それとも少し考えにくいが、悲しいと思ったのか。
想像しながら、どうでもいいことだと気付いた。例え彼がどのように感じたとしても、それは関係ないことなのだ、私がどう感じたところで彼には何も影響がないように。

他人と自身の境界線がはっきりと見えている。これが、大人になるということに違いなかった。





































全てが終わり、私たちは再びこの地上に戻ってきた。何もかもが元通りになった場所で、けれども何もかもが、私たちの中に残ったままの世界に。

聖戦と呼ばれた戦いが過ぎても、私は墓石を残したままだ。死は依然として私の行く先に転がっているから、そこから逃れたわけではないから。…そんな理由ではない。

私は未だ。










戻ってくる前も戻ってきた後も、その男を墓場で見たのはそのときがはじめてだった。ひとつの墓石の前に立っていた。その墓石には、男の名が刻まれていた。

貴方も持っていたのですねと尋ねれば、彼は目を閉じたまま少し笑った。
「いいや、私は持っていなかった。これはさっき作ってもらったのだよ」
「…さっき、ですか?それはまたどうして」
そして意外だとも思った。誰よりも死を受け入れている人間だと思っていた。定めや運命といったものを、誰よりも理解している人間だと思っていた。

「死んだからだとも」
こわいものなど、ないのだと思っていた。

「ムウ、新しい日々は私にきっと新しい世界を与えてくれる。そこで生まれる私は、きっと新しい私となるだろう」
「……」
「そして再び眠りにつくとき、新しい私はかつての私に出会うことになるだろう。そのとき私が迷わず私に会えるように、迷わず私になれるように」


相変わらず、何を言っているのかはさっぱりわからなかった。けれども嬉しそうに墓石の文字をなぞる男の横顔が、ずっと昔に見ていたものよりも少し大人に見えて、私ははじめて男が歳を重ねたことを知った。いつまでも変わらないと口を尖らせていたものが、いつの間にかここまで成長していたことを、知った。








変わらないようでいて、変わったようでいて。

私は今ようやく、死んだらあの墓石をここに立ててほしいと、胸を張って言えるように、なったに違いない。それが良いことか悪いことか、そんなことはどうでもよかったのだ、今も昔もきっと。考えなければならなかったのは、その躯の残したものを目にする瞬間。



死に逝く私たちにそれは、本当は、関係のないものなのだから。








蜘蛛の子を散らすように


わたしたちが死を受け入れる間もなく、わたしたちは死んで、またどこかで生きるでしょう。

大人になった子供たちの話でした。「愛おしい朝」から続いていると思うとわかりやすいかもしれません。

2013 07 18