たまには地上に出ろよと、ギリシャではまだ陽も昇らない時間帯に暗い地の底から引きずり出した。余計なお世話だといつも険しい表情をさらに険しくさせるかと思ったら、意外にも素直に連れ出されてくれたので、どうやら相当疲れていたらしい。そう思うと連れ出したことをちょっと後悔してしまった。
それでも再び地の底に戻してやるのも何なので、せめて気分転換にでもなればいいかと朝の市場へと足を向ける。陽が顔を出すにつれてまばらに増える人の数を無意味に数えていると、仏頂面のまま後ろをついてきていた地の底の住人が、些か眠そうな声で低く呟いた。
「何か欲しいものでもあるのか?」
首を横に振ってこたえる。
「別に?」
「じゃあ何で市場なんだ」
何でだろう。
「俺が好きだから、ではいかんのか?」
そんなことを訊かれるとは思っていなかったから、適当にそう返した。別に嘘は言っていないから構わないだろう。市場は好きだ、人が多くて賑わいがあって。特に用もないのに出向くこともたびたびあった。理由なんてたったそれだけだった。
あれは、以前地の底に届ける書類のついでに、住人たる男の下を訪ねたときのことだっただろうか。ここは何度来ても好きにはなれないと、冗談交じりで口にした。それも嘘ではなかった。陽のあたる世界に慣れきってしまって、陽のあたる世界に喜んでしまって、自分からわざわざ暗い世界に行きたいとは思えなかった。それを聴いて、当然と言えば当然か、男はすこし顔をしかめた。
「だったらわざわざ来なくてもいいだろう」
些か機嫌のわるそうなその声に、なぜか無駄な対抗心を抱いてこちらも口を尖らせた。
「なんだよ、せっかく会いに来てやってるのに」
「たのんでない」
「こっちも頼まれた覚えはない!」
その時も確か理由を訊かれて、俺が好きで来ているだけだ、それではいかんのかと言い返したような気がする。男は何かと自分に理由を求めたがった。それが面白くなかった。奴が満足するような意味や理由を自分はいつだって持ち合わせていない。あとになって考えてようやく尤もな理由を見つけても、同じ質問を男が再び自分に向けてくることはなかった。
林檎を買った。籠に入れて、8つほど。普通の奴ならきっと重くて片腕が痺れる数。歩きながらそのうちのひとつに齧り付く。何か言いたそうな目で男がこっちを見ていたから、ずいとその重たい籠を突き出してやった。
「食えよ」
「…要らん」
「なんだ、林檎は嫌いか?」
「…お前は好きなのか」
「別に?」
単に片手で食べられる上に皮を剥く必要がないから、というのがいつも買ってくる理由だ。ただそう伝えるのが面倒で、やはり適当に返した。
「だがいつも土産といって持ち込んでくるし、おれにも勧めてくるだろう」
「嫌なのか?」
「…別に」
「じゃあ食えよ。腹減ってるだろう」
これでも一応、朝飯も食わせずにつれ出したことを悪くは思っているのだと言外に滲ませても、この男のことだからいつもの横暴だと思ってくれるだろう。そんな確信があった。一方的にかまってやっているとは思っているが、それで何か見返りがあるかと言われれば首を傾げざるを得ない。そもそも人付き合いに見返りも何もないものかと勝手に納得した。だってそれを言うなら俺は、とっくに双子の兄なんかとは手を切っているはずなのだから。
「お前も何か欲しいもん見つけたら買えよ」
気分転換に出てきているというのに、もうずっと苦虫を噛み潰したような表情ばかりしている男の背中をばしりと叩いてできる限り明るい声を放った。賑わう人々のあいだでかき消されてしまわないようにするためのものだったが、不自然なくらい底抜けた色を湛えたそれに、自分で違和感を持つ。
「……言われなくとも」
「そうするってか?」
頷きもしないで男はこちらを睨むように見た。
「なんでお前はそんなにおれに構うんだ」
「なんでって……」
そんなことにまで理由が欲しいのかお前は。どこまでクソ真面目なんだ。
茶化す言葉はすぐに思いついたが、それを発音することはできなかった。カノンとて、理由を欲しがる気持ちがわからないわけではない、むしろ多くの自分の行動について理由を求めない人間と言う方が珍しいし、経験上そういう人間はあまり信用ならないと知っている。この男は、かるく言えば本当に、超がつくほどの真面目野郎だ。
この誠実さを前に、俺はいつも不誠実な人間だ。
うーん、と首の後ろを掻きながら困ったように視線を逸らす。逸らした先には一組の親子が居た。店先に並ぶ旨そうな食べ物どもを見て無邪気に喜ぶ幼子に、母親らしき女性は微笑んで望んだものを買い与えていた。その傍らで、あまり甘やかすなと父親らしき男がため息混じりに口にしていた。そんなどこにでもありそうな光景だった。
「……あ、」
そこで思いついた。思いついて、すぐに目の前で恐らく仏頂面を晒しているであろう男の手を掴んだ。
「? おい、」
「なぁラダマンティス、ペン買ってやるよ。この間こわしたとか言ってただろう」
「は?ペン?」
「次は多少乱暴に扱ってもいけそうな、もっと丈夫なやつにするといい」
「…お前、一体いつの話をしているんだ」
覚えていたのは、ペンが壊れた、床に転がったのを踏ん付けた、全く馬鹿なことをした、という男の言葉だけである。男はよく物を壊した。本当に大事だとわかっているものはぜったいに壊さないが、それ以外のものに精細な気配りができるほど器用な人間ではないと自分で言っていた。なんだそりゃと聞いたばかりの頃は大笑いしていたけれど、自分も人に言えたものじゃないからお互い様だ。
それが何時の会話のものかは思い出せない。だが今唐突にそれを思い出して、それにかこつけて引っ掴んだ男の手は、地の底にある死の世界に住むものなどとは到底思えないほどあたたかで、たったそれだけを自分は喜んでいる。
人の群れに紛れた俺達は、見た目だけなら普通の人間と何も変わらないだろう。それと同じだ。俺は明るくて、あたたかいところが好きだった。暗い地の底はどれだけ目にしても足繁く通っても好きにはなれなかった。だからお前も同じじゃないのかとお前を引き摺り上げて見たら、お前は違った、居場所はここじゃないとお前は目で俺に語る。
「ペンならもうバレンタインが買ってきたぞ」
「もう一本くらいあっても邪魔にはならんだろう」
「意味がわからん。そもそもお前から物を貰う義理など」
「なくて結構、いいんだ俺が好きでやるんだから」
それは理由にはならないと、また不機嫌に返されるのかと身構えた。だが想像していたことは何一つ起こらず、代わりに長い沈黙がもたらされた。
「……どうした?」
気まずさに耐えかねて外していた視線を戻してみる。表情はいつも通りすぎてそこから何かを窺うことはできなかったが、ただならぬ雰囲気に掴んだ手だけでも放しておこうと腕を引くと、逆に凄い勢いと力で掴まれた。
「あいだだだだだ」
指がめり込むんじゃないかと思うほど強く手首を締められて思わず声をあげる。なんだ何してるんだまさか怒ってるのか?早口でそう告げると、男がわずかに目を細めた。
「怒っている……そうだな、そうかもしれん」
「そうなのか?それは俺の所為か?」
「いいや」
お前は何も。横に振られた首と同時に小さく呟かれる。じゃあ何が不満だと続けて尋ねようとすると、男は空いている方の手で自身の顔を押さえ込んだ。
「カノン」
「なんだ」
「お前がおれに何を与えても、おれはお前に何も渡せない」
「うん?」
「お前がおれの下に今いる理由が“好きだから”だというなら、どうすればお前はずっとここに居てくれるんだ」
多分その瞬間、俺はものすごく間抜けな顔をしていたんだろう。
俺は自分の不誠実さを恨んだ。見つけてくることのできない理由を誤魔化し続けてきたツケが回ってきたのだと、俺はそのときすぐに理解することができたのだから。
別に何も与えてくれなくてよかった。同時に、よくよく考えれば俺だってこいつに何かを与えてきたわけではなかった。俺たちの間には何もなかったはずだった。だが何もないだけではもう何も成り立たないのだと、この流し続けてきた時間が俺たちに告げにきてしまったのだ、きっと。
悲しいことは何もなかった。男も同じだろう。怒りだといったそれすらきっと怒りなんてものではないことを、自分は知っている。理由も用意できないのに積み重ねたすべては、不誠実で、不確かで、不揃いで、でもどこにも嘘はなく、いま男が自分の手を離せないのは、それらに誠実で、確かで、信頼できる価値を求めているからだった。
少し掴まれた手首を動かして、男の指から再び手を握り返す。必要もないペンを買い与えるために歩き出す。不毛だとわかっていて、そうするしか思いつかなかった。
「なぁ今更撤回していいか」
「……何をだ」
リセットボタンはどこにもないが、やり直したことを受け入れてもらえたらきっとやり直せると思った。都合の良い話だという自覚はある。色は黒がいい、丈夫で、落ちても踏んでもそう簡単には壊れないもの。買い与えるならそんなものがいい。
「欲しいものなら、ある」
この人の群れの間で、普通の人間と見た目は変わらない気持ちで。
俺は、明るくてあたたかい場所が好きだった。それらが眠りについて、暗く寒い世界が訪れる時間がきても、そんな時間が来るからこそ。
ミーニングレス
ラダカノを求めてきてくださってる方が多いようなので、ひとつめはラダカノにしてみました。
なんだかんだ数年越しに書いてると、書いてる本人のなかでもいろいろな制約がなくなったりむしろついたりするものだなと実感しました。
しあわせになれとは言いませんが、彼ららしくあれればといつも思います。
2013 06 24